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「誠実さ」について考える

先日、連続ツイートで紹介しましたが、僕には「誠実さの法則」というものがあります。

たとえば、最近の中国や韓国の日本へふるまいは、日本人からすると腹を立てざるを得ないものがあります。でも、現代の脳科学の標準的な見解によれば、脳の振る舞いにおいて、「自由意志」(freewill)は存在しません。国の行動というのは、それぞれの国の人々の認識や行動の集合体ですから、中国や韓国のふるまいも、ある意味で「必然」として起こったこととなる。

では、僕ら日本人は黙っているしかないのか。そこで「誠実さの法則」が出てきます。たとえ、相手の振るまいに自由意志がなく、今とは違った行動が期待できないとしても、それに対して「腹が立っている」という感情を伝えることで、相手が今後行動する時のパラメータが、劇的ではないにせよ徐々に変わるかもしれないことに期待する。これが、「誠実さの法則」です。

他人に対してあまり期待しない、しかし自分の感情は伝える。これこそが、自由意志が存在しない世界観と整合性のある、誠実さの法則だと思います。

みなさんも日々を生きる中で、それぞれ「誠実さの法則」があると思います。

ビジネスにおける「誠実さの法則」、家族のなかでの「誠実さの法則」、友人との「誠実さの法則」……。この「誠実さとは何か」を突き詰めることは、人間同士のコミュニケーションを突き詰めることになると思います。たくさんのご意見お待ちしています。

NO.6   trasque 2012/09/10 02:49:02 合計 23pt.

ある頃から私の中で「誠実にしよう」と考える時には、必ず一つの課題が立ちあわられます。
それは「勇気を試される」ということです。
結論を先にすれば、私にとっての誠実さの法則とは「勇気を出す」ということになります。


辞書では、私利私欲を交えない真心の行動を表すさま、となります。意味としてはこれで良いと私も思います。しかし、これをいざ実践しようという時にこうはなりません。
シンプルに捉えると「相手(誰か)の為に行動する」とも読みかえられます。この行動はとても難しくなることがあります。誰かの為に何かをするということは、その誰かにとってどのような効果・結果がもたらされるのかという具体的な部分を「想像」しなければならないからです。
誰かにとってどのような効果があるのかを想像する為にはまず一つの基準として、自分にとってどうなのか、と自分を相手の立場に置き換えた仮定を立てなければなりません。他にも、一般常識(コモンセンスと言うのでしょうか)に照らし合わせるような方法もあるとは思います。ただ、どうしても「自分」という基準を全く抜きにすることはできないと思います。
その想像をする為には、少なからず自分の中に様々な経験や知識が必要になります。
「ケーキを食べる時に紅茶があるとオイシイよな。だからケーキをご馳走したらよく合う紅茶もつけてあげよう!」という経験と知識、みたいな感じです。
「私利私欲 = どこまでを私利私欲とするのか」って部分を可能な限り広げてみると、矛盾するようですが、誰かの為に何かをしようと考えた時点で必ず何らかの「見返り」が発生することから、私利私欲を交えないということはできないと考えられます。ちょっと極端な話ですけど……

それは「お金を貰う」という見返りかもしれないし「好感度が上がる」という見返りかもしれない。または「誰かにコレをしたという経験が、自分にとって何らかのプラスになった」という見返りかもしれない。そんな風にして、とても現金・数値・具体的な見返りを得ることもあれば、とても精神・アナログ・抽象的な見返りを得ることもあって、それらをどこからどこまでが適切だなどと線引きできる人はいません。100円なら許されて、1万円なら汚いという訳でもなく、見返りを期待したから汚いと一概に言える訳でもない、ということです。
ですから私は、多少極端と言われようとも「見返りを期待することは、おおむね是」という考えを持っています。見返りの完全排除は「誰かの為に何かをする ──為の土壌」を育てる栄養素を排除すると同義だと思うからです。
まず(1)つ「誠実である為には、自身の中に土壌が必要」という点でした。


さて誰かの為に何かをするという点で、様々な行動があります。現金的な内容であれば、モノを買う為に支払って、売る側は対価を得て品物を渡す、というのもその一つになります。しかしこれはほとんど両者の得るものが、目に見える形で明確かつ対等、な為に「誠実ですね」という話にはなりにくいかと思います。
単純に「誠実だな」と感じやすいのは、やはり片方に得るものが大きく、そしてその内容が即時即物的では「ない」という結果が生じるような場面ではないかと思います。
これに該当するとしたら、例えば「教育」があると思います。
教員給与等の報酬を含めても、やはりその効果は推し量り難く、時折恩師を持つような人物の話しを聞くにつけて「とても大きなものだな」と実感せざるを得ません。
ところでもしある子供達を教育するとなった時、私達はまず子供達をどのように見るでしょうか。
私には教育経験がありませんから、現役の方にとっては甘い話と映るのかもしれません。ただ、目の前にいる子供達一人一人に対して「コイツはもうこの才能は無い」とか「アイツはこの方向では絶望的」などと、決め付けられる人物はいないと私は思います。
恐れずに言えば、子供達は究極的に「何でもできる」はずだと確信を持って教育にあたる、という態度が必要ではないかと思うのです。
少し話しがそれました。上記教育で子供達に対する態度と同じ様に、私はまず誠実である為にはこれと同じことを子供達だけではなく「あらゆる相手」に対して確信しなければならないと感じます。

ある極悪人、彼は平気で人を殺し、それ数え切れず残虐非道、世界中を相手にしてさえ不敵でいられるような人物がいたとして。そんな彼にも、世界中から称えられるような聖人、犠牲的精神もあり、それでいて目的の為に生き抜く勇気を持ち、どんな小さな不幸も無くしたいと願うような人物の「心」が、少なからず存在するという確信です。 その逆も同様です。 どんな聖人にも、極悪人の「心」が無い訳ではない。

上記は極端ですが、普段私達がつきあう身近な人々を、私達はつい「こんな人だから」とかいう風に勝手に限定してしまうことがあります。ひとつ嫌なことがあると、その感情は火が走るように拍車が掛かり、ちょっとした言動にも何か裏があるのではないかと勝手に想像しては本気でそれと思いこんでしまうこともあります。確かに年齢を重ねることで、人は簡単に変われなくなるものだとは思いますが、私はそれをしてさえ「変われるものだ」と思うことにしています。なぜなら、そうしなければ私の中でもそれ以上の知恵を出そうとしなくなるからです。

人間の「命」というものや「心」というものが、これほど全然わかってないものなのに、私達は「限定」をし続けてしまう。一瞬、そう思ってしまう心があることは仕方ないとしても、いやそうではないとまず自分から挑戦することを放棄してはならないと考えます。
「限定」をしてしまえば、それ以上の「自分に置き換えた想像が必要なくなる」ので、誠実な行動をするにしてもどこか限界がやってくるからです。
(2)つめは
「土壌を広げる為には、誰びとにも”あらゆる命の方向性”があると信じる必要がある」でした。


いじめ(というにはあまりにも犯罪的でしたが)の問題の時にしても、いじめた側の生徒をもはや「そのような人間なんだ」と世間(どちらかというとメディアでしょうか)は捉えています。もちろん単純に味方をする訳ではありません。それでも私はあえて、上記のように「そんな彼も人間である」と主張したいのです。(実を言うとTwitter上では、ビビってこのような主張はしませんでした。私の臆病さです)
あのような人間はやっぱり小さい頃から「傾向性のある事件」を起こしている!
あのような人間は親族もやはりなっちゃいない!
だから潰せ、隔離しろ、絶対に許してはならない!  ……
私は、確かにある種の「正しさ」だと思います。でも「何も解決していない」とも思うのです。
(2)の私の主張に照らすと、このいじめた側も「究極的には許せ」という話になってしまいます。
誰が!やるのか。それは非常に難しいことです。しかし、あの非道な行いをし続けた(ている?)少年に誰かが「対話」をし続けなければならない時は必ずくるだろうと思います。何十年かかっても!

「相手を限定する」という状況が蔓延する現場は、進歩がなくなります。
想像力を働かせる時間がどんどんなくなっていくからです。
そしてそのような状況が起こりやすいのは「相手を諦めるのは、仕方が無いことだ」とする人物ばかりが占めている時です。そしてそれは、あらゆる現況を「何らか他のもののせいにする」クセがついた人達で現場が埋まることを意味します。つまり「まず俺が何か一つでも変えていく!」と決意する人物がいないことを意味してしまいます。あらゆる周囲のものによって自分が動かされていると思っているうちには、自分がまず変えようなどとは考えられないからです。
「本当の本当にその人・現場の為になることは何か!」と悩みぬいた人の行動は、時に矛盾したように映ります。<その人>が取るその行動・考えが、長い目で見てその人の為にならないと思えば、心を鬼にしてソコを切ることもあるでしょう。またまた別の人、その現場、と考え抜くほど具体的な行動になっていきます。自信を失った人を励ますこともあるでしょう。一緒に何か挑戦しようとすることもあるでしょう。時にはただ見守ることが必要だと判断することも、あるかもしれません。
しかしその為には想像力が必要です。そして相手の本当の所を信じぬかねばなりません。☆(1)(2)

ですから(3)つめ、
誠実な行動は「常に具体的になっていく」という点があります。毎日、毎日の勝負です。


結論に戻ります。私は「勇気を試される」と言いました。それはなぜか。

(1)「誠実になる為の土壌」
これを育てるには、様々な経験をしなければなりません。時にそれが苦痛となることもあります。望まずして出てきた不幸がコレにあたるかもしれません。究極的に、どのような理不尽すらも「自らの土壌にするんだ」というちょっとマッチョな考えが必要になることだってあります。
個人的な話ですが、私は今振り返ると、特定難病疾患というものにかかって何度か手術したり長期入院した経験をして良かったと感じます。良かったと思えるまで確かに、ちょっと「そのように思えるようになろう」と無理をした期間もありました。しかし、人間は必ずそうしたことができる力を備えています。
ただ、備えていてもそれを扱わねばなりません。武器を振るう為には勇気が必要なのです。伝説のエクスカリバーを持ってても、全く鍛えていない体で一切の勇気がなければ重い棒に過ぎず、単なる逃げ遅れの原因になってしまいます。
私は難病が「やってきた」のは僥倖だと感じています。多くの場合「自ら困難に向かおう」とするのはとても勇気が要るからです。私の場合は病がやってきてしまい、文句を言う暇もなく突き抜けねばならない状態にされてしまったので、言わば「背中を押してもらった」と考えています。
その他の多くの事は「自分から突撃しなければならない」からこそ、勇気がいるのだと思います。

(2)「誰にも”あらゆる命の方向性”があると信じる」
誰かに裏切られることはとても辛い事です。
裏切りと言わずとも、期待した結果を得られなかったり、思ったように動いて貰えなかったり、信用して貰えなかったりといった場面では、心が萎縮してしまいます。
ましてや、自分を敵視しているかのような行動をとる人に対しては、できるだけ関わりたくないと考えるのが普通です。しかし、それではいつまで経っても何も変わりません。あいつが勝手に俺を敵視しているのが悪いと、いつまでもブチブチしているのか。それとも、まず俺が一つ変わってみせてやろうと奮起するのか。それは自由ですが、やはり勇気を試されるのは後者です。
動いたからといって相手が変わってくれるとは限りません。余計に「点数稼ぎ」などと罵られる恐れだってあります。だから怖いのです。1度ならず2度、3度と挑戦できるかどうかは、やはり勇気を出せるかどうかだと思います。

(3)「常に具体的になっていく」
職場、家庭、地域。何でもそうですが、より良くしよう、何かを解決しようと考え始めるとどんどん具体的にしていかなければ動けなくなっていきます。これらに関わる一人一人のことをどんどん具体的にしていくと、場合によって「本当はやりたくないんだけど」といったものも出てきます。しかし、具体的に分析できる人は既に「真剣に考え抜いている人」だと思います。考えて考え抜いて、これができれば大丈夫だ!と頭では分かっている、でも…… と葛藤が始まります。これをどうやって破るか。これもやはり、勇気を出せるかどうかだと思います。
実は今年の4月に転職をし、新たな現場でほとんど未経験の仕事に就くこととなりました。私は今のところ、通りすがる人には必ず挨拶をすること、朝には直接関係ない部署にも行って可能な限り挨拶をして回ること、という点をまず最初の目標として密かに掲げ実践しました。会社では幸運にもそうした態度を評価して頂いたようです。
この点で友人が言ったことがありました。「気軽に挨拶できる人って良いよなあ」と。
その場で私は否定しましたが、とんでもないことです。挨拶を気軽にできたことなど私にはありません。特に別部署に行く時などは、ドアの前で軽く深呼吸をしてから入る程です。同じ部署でも、あまり挨拶を返してくれない人も当然います。それでも毎日こちらから声をかける。それが簡単な訳がありません。いつも「今日は別にいいかな…」という思いが一瞬頭によぎります。そして結果として「おはようございます」と声に出すのです。本当に一瞬の葛藤です。でも、そこで勇気を出せるかどうかが勝負だと私は思って、毎日挑戦しています。挨拶ひとつとっても、本当は怖いのです。
ですから、真剣になり内容が具体的になるほど「勇気を試される」回数は増えていきます。


本当に長くなってしまって申し訳ありません。
冒頭「私にとっての 誠実の法則 は 勇気を出す ということである」を、分解して私なりに解説させて頂きました。いつも長ったらしくなってしまって反省してます。(投稿しちゃうけど)


先日、あの乙武さんのツイートを見ていると、ある障がい者の方から「お前のように強い者ばかりではない。乙武が出来ているのだから、といつも比較される立場を考えたことはあるのか」という叫びが、乙武さんに届き、少し騒動となっているのを見かけました。
これを見た時、当然私には乙武さんと同じ程のものではないにしても、似たような体験をしたなと思ったのです。やはりTwitter上での事でした。
(これは以前書いたかもしれませんけど)私はクローン病という特定難病疾患を持っていますが、この体験をある種のバネにして同じ体験を持つ人への、何らかの勇気になればと色々呟く事がありました。そんな中で、やはり同じ病を持つ方から「ポジティブすぎるのは好かない」というような話を頂き、ちょっとした論争になったことがあります。
同じ様に「私にもできるのだから、きっとあなた達にもできる」という話を嫌う傾向にある方々は、Twitterを見る限りでは結構いるもんなんだな、ということにようやく気づく状態でした。
その時、私の中で色々と葛藤が生まれました。やはり、私のやってることは単なる楽観主義で「人気稼ぎ」に過ぎないのかな、と。乙武さんが同じような事を考えたかどうかは分かりません。私はしばらく悩みました。
その後、自分のスタンスを変えてはいませんが、そのような「励まし」の意を含めたツイート等をしようとする時には、より深く考えようとする傾向が強まりました。また、そうしたひとつのツイートを送信しようとする瞬間に、より勇気が要るようになりました。ハッキリ言えばちょっと臆病になったのです。
結論はまだわかりませんが、この経験によって私自身の発言は少し洗練されたのかな、と楽観的に見られるようにもなりました。想像力の幅が広がったかもしれないからです。たぶん、乙武さんはその時のツイートに限らずずっと前から、そのような体験をたくさんされてきたのだろうと思います。ですから、乙武さんはより「誠実な行動ができる人」だと私は思うのです。



ここまで綴って、新奇なものに対してどのように想像力を働かせるべきか、という点についても考えてみたいと思います。例えば「海外の文化・芸術」といったものです。今回の議題に茂木さんが補足されているように、二国間の問題に関連した話題になります。
文化、というよりは習慣・思想について私達(国達)はよくすれ違いを起こしています。ここの所話題になっている隣国同士もそうです。私達は理解できないことを前に、あまりうまく行動を起こせないように感じます。
しかし「芸術」はどうでしょうか。ほとんどの場合、芸術は(国をまたげばなおさら)一瞬よくわからないこともたくさんあると思います。しかし私達はそれを受け止められずに攻撃をするようなことはありません。
私はあまり芸術的な話をしたことが無く恐縮なのですが…… 芸術とはまず「いったん受け入れる」という考え方があるように思います。あなた方の国のその芸術は、今ちょっとよく分からないけれどもまずキチっと観てみます!というような。そうすることで、相手の「全力」を分からないながらも受け止められます。で分からないところは素直に「コレはどういうことなのか」と聞くこともできます。相手もたぶん、ドレがナニを表現しているのだという話を必死にすると思います。その為には、やはりその国の歴史や文化を正直に話し・受け止める必要が出てきます。
私は、大学や高校(更には小中)でもっと国際的な文化芸術交流をすべきだと思っています。ちょっとした修学旅行でも大変な現代ですが、若くしてすばらしい芸術性を備えた人物はどの国にも必ずいます。そうした人達との交換留学とも言うような活動が、教育現場を中心にして、さも当たり前のように広がって欲しいと思うのです。実際に取り組んでいる学校もあるかとは思います。
そしてその現場を、必ずしも芸術性を志さないかもしれない青年達の目にも触れさせていけたらと思います。芸術は「最初はよくわからないもの」が当然です。だから素直に対話できると思います。そしてそれが、大きな想像力に繋がっていくと思うのです。それも、二国間の両方の若い想像力が広がります。単純なようですが、そうなれば双方にとって「誠実な振る舞いが出来る人」が増加することにはならないでしょうか。


最後に、誠実さと勇気について。
例えどれほど周囲の人が「あなたは誠実な人だ」と評価しても、本人の心の中で納得できていなければ「俺は誠実な人生を送った!」とは思えないはずです。逆に「俺はこれだけやった!」と思っていても、周囲があまり誠実ではないと思い続けていれば、それは結果に繋がったとは言えないでしょう。
「冥」という言葉があります。 目に見えないこと──という意味があります。心の奥底という意味もあります。誰も見ていないところで、やるべきことを追求し実践する。この孤独の戦いの中に勇気があると思います。見えない仕事でも結果が見えれば分かりやすいです。しかし、世の中には見えない戦いの結果が誰の目にも触れないことがたくさんあります。その当事者となったとき。そして「見えない」ことが自分でも分かっているとき。そこで試される勇気を勝ち超えられたかどうかで、その人が心から「俺は誠実に生きた」と納得できるのではないかと思います。

私は例えお金や名声に恵まれなかろうと、恵まれようと、最期の時には「俺は誠実に生き抜いた」と言い放てるようでありたいと、時々考えます。