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「誠実さ」について考える

先日、連続ツイートで紹介しましたが、僕には「誠実さの法則」というものがあります。

たとえば、最近の中国や韓国の日本へふるまいは、日本人からすると腹を立てざるを得ないものがあります。でも、現代の脳科学の標準的な見解によれば、脳の振る舞いにおいて、「自由意志」(freewill)は存在しません。国の行動というのは、それぞれの国の人々の認識や行動の集合体ですから、中国や韓国のふるまいも、ある意味で「必然」として起こったこととなる。

では、僕ら日本人は黙っているしかないのか。そこで「誠実さの法則」が出てきます。たとえ、相手の振るまいに自由意志がなく、今とは違った行動が期待できないとしても、それに対して「腹が立っている」という感情を伝えることで、相手が今後行動する時のパラメータが、劇的ではないにせよ徐々に変わるかもしれないことに期待する。これが、「誠実さの法則」です。

他人に対してあまり期待しない、しかし自分の感情は伝える。これこそが、自由意志が存在しない世界観と整合性のある、誠実さの法則だと思います。

みなさんも日々を生きる中で、それぞれ「誠実さの法則」があると思います。

ビジネスにおける「誠実さの法則」、家族のなかでの「誠実さの法則」、友人との「誠実さの法則」……。この「誠実さとは何か」を突き詰めることは、人間同士のコミュニケーションを突き詰めることになると思います。たくさんのご意見お待ちしています。

NO.12   sunameli 2012/09/14 23:40:56 合計 15pt.


私は、誠実さは「ある存在はほかの存在を傷つけうる」ということをとことん学んで初めて生まれるものだと思います。ですから、実際に自分が誰かによって傷つけられ、また誰かを傷つける経験をすることで段階的に学んでいく側面があると思います。

また、trasqueさんのコメントに乙武さんへの言及がありましたが、乙武さんの発言やツイートは見るたびに「誠実だなあ」と感じます。なぜなのかということを考えた結果、「自分の言葉にきちんと体を賭けている」のが伝わってくるということが一番大きいように思いました。

その時代に生きていたわけではないので印象論に過ぎないのですが、数十年前と比べて日本人の中で「言葉に体を賭ける」という習慣がかなり失われている気がします。ここ十数年、ここ数年でさらに。もちろん自分を含めて、無意識に。

賭けているつもりでも、賭けていないという気がします。
この「賭ける」ということの定義は結構難しく、ただ命を賭して何かを叫ぶことがいいわけでもなく、相手の胸倉を掴んで主張すれば賭けていることになるかというと、どうも違うような気がします。

おそらく「誠実さ」には、ほかの方が述べられているとおり、
他者の尊重や想像力、自己の客観視という要素が欠かせないのだろうと思います。そう考えると、「誠実さ」というのは、単に正直とかいうことではなく、自分と自分以外の存在が生きていく中で折り合いをつけていくための切実な作法でもあるのかもしれません。

誠実さを問う条件とは、
まず他者の痛みへの想像力があるか、ないか。
その上で自分の言葉に体を賭けられるか、否か。
ということなのではないでしょうか。