「誠実さ」について考える
たとえば、最近の中国や韓国の日本へふるまいは、日本人からすると腹を立てざるを得ないものがあります。でも、現代の脳科学の標準的な見解によれば、脳の振る舞いにおいて、「自由意志」(freewill)は存在しません。国の行動というのは、それぞれの国の人々の認識や行動の集合体ですから、中国や韓国のふるまいも、ある意味で「必然」として起こったこととなる。
では、僕ら日本人は黙っているしかないのか。そこで「誠実さの法則」が出てきます。たとえ、相手の振るまいに自由意志がなく、今とは違った行動が期待できないとしても、それに対して「腹が立っている」という感情を伝えることで、相手が今後行動する時のパラメータが、劇的ではないにせよ徐々に変わるかもしれないことに期待する。これが、「誠実さの法則」です。
他人に対してあまり期待しない、しかし自分の感情は伝える。これこそが、自由意志が存在しない世界観と整合性のある、誠実さの法則だと思います。
みなさんも日々を生きる中で、それぞれ「誠実さの法則」があると思います。
ビジネスにおける「誠実さの法則」、家族のなかでの「誠実さの法則」、友人との「誠実さの法則」……。この「誠実さとは何か」を突き詰めることは、人間同士のコミュニケーションを突き詰めることになると思います。たくさんのご意見お待ちしています。
trasque さん、誠実なご意見、ご感想ありがとうございます。返答は、「誠実さの法則」が成り立つことを意識しながら、投稿したいと思います。
聖徳太子の十七条憲法の第十条に 我必ず聖にあらず、彼必ず愚かにあらず。共にこれ凡夫ならくのみ。というのがあり、司馬遼太郎は、恩師から「自分をつまらぬ人と悟った人(凡夫の悟り)が一番偉い人や」と教えられて、それを一生の課題にしていたということです。聖徳太子や,司馬遼太郎をエリートと呼んでいいのか解りませんが、問題は、我々が、エリートとして我々の指導者を選ぶのかどうかではなく、我々の指導者が、指導される我々と、「共に凡夫」という対等の目線に立てるのかどうかだと思うのです。唯、日本が、心豊かで,生き生きとした生活を送ることが出来るようになる為には、先進的で、未来に対して常に洞察力のきく指導者がどうしても必要だと思います。今の日本に、そういう指導者が見当たらないのは、我々がお互いを信頼せず、足の引っ張り合いを繰り返したあげく、指導者を選ぶ能力さえ無くしてしまった結果だと思います。
皆さんは、「エリート」という言葉を聞いて、何をイメージされますか? 地方の名門を継いだ政治家でしょうか? 東大生でしょうか? それとも高級官僚? 確かにこれらの人々は、以前は(いつまでかは定かではないですが)エリートの名にふさわしく、国を思い、国をリードし、つまり,国の指導者としてその生涯を懸けた方々が多かったのだと思います。しかしながら、現在では、茂木さんが言われるように、エリートの選抜制度は、単なる自分の地位を確保する為の、いわゆるポジション狙いの制度となってしまいました。それぞれの地位を確保したとおぼしきエリート達は、その地位に応じた先輩ゆずりの既得権を確保し、国、あるいは世界の情勢に関わりなく、自己保存の本能に邁進しているように見えます。国民は、指導者を選ぶ能力をなくし、それに応じて、指導者も育たなくなったということではないでしょうか。
trasque さんはエリート教育がお好きでないとおっしゃいます。しかし、一人一人の子供達の才能をほんの小さいうちから見つけて、それを思い切り伸ばしてやる環境を整えるのが、エリート教育であるとするならば、これからは、そういう教育こそ(私は共友育(ともいく)と名付けました)、我々がこれから目指すべき方向なのではないかと思っています。しかし、これは、子供自身が、自分の才能を自覚するようになることが肝心な点だと思うので、対話の中では、いつも、個人としての自立を促す配慮が必要だと思っています。つまり、アブソーベント・エイジ教育に於いては、一人一人が、みんなエリートだということが出来るかもしれません。そうやって、個性と能力を精一杯に伸ばした個人の集まりが、理想の社会を作ることを目指して、議論し、切磋琢磨した末に、その中から自ずと、新しい指導者が生まれてくるのではないかと思います。大事なのは、一人一人がしっかりした自分の意見を持ち、大いに議論の巻き起こる土壌を作ることだと思います。
それに対して、先の投稿でも述べましたように、今の日本では、明治以来シビルローの基に法律が運用され、時の、全体主義と相まって、規則を厳格に守ることが、日本人の国民性ともなりました。これは、犯罪が少なく、勤勉に努力する人が多いという結果を生み、特に,第二次世界大戦後は、戦後の奇跡の復興に寄与したのですが、反面、規則を守るか守らないかが人を評価する唯一とも言える基準となり、人々の間から規則そのものに対する議論が徐々に消えていってしまいました。また、それに従って、いろんな話題について、人と人が議論,対話することもなくなっていったようです。
民主主義にとって、ある問題に対して,良質な議論を戦わせるということは、その成熟度を高める上では欠かせないベーシックな要素です。西洋では、日常的に、町、国のレベルに関わらず政治問題が話題になるということを聞いていますし、イギリスでは、公園で自分の政治、哲学の主張を人々に聞いてもらう文化もあると聞きます。バングラデシュでも、英字新聞を読み、政治の問題を議論するのは、高等教育を受けたものの当然の責務でもあるし、女子学生が、イスラム教の一夫多婦制に対して非難する意見も聞いたことがあります。それに、何よりも、アメリカは、議論の国と言う印象で、選挙の際の公開ディベート、テレビのニュース解説などでは、必ず賛否両論が聞けるという配慮(アルカイダでさえ望めば、反論の機会がある)等々、今の日本が真の民主主義を実現させる為には、見習わなければならないことが数多くあります。
それでは、なぜ、良質な議論がないと民主主義が機能しないのでしょうか?
私は、外国人との会話と,日本人との会話の際に、大きな差異を感じることがあります。それは,日本人の会話の中には、何故?(Why?)という理由付けがきわめて少ないということです。そして、私は、いつも理由を聞いたり、説明したりするものですから、日本人からは理屈っぽいといやがられ、真摯に疑問を呈したつもりの時でも、相手からは、よく腹を立られてしまいまいます。
それに対し、外国人と話すときは、理屈がしっかりしているほど、会話が弾むと言った具合です。どうやら、何事も議論を回避する態度をとり続けていくと、思考回路そのものが怠けて、退化さえしていくのではないかと思えます。民主主義をしっかり機能させる為には、健全な思考回路が必要です。これからの子供達には、何故?という言葉に触発されたクリティカル・シンキングの考え方をしっかりと身に付けていってほしいものです。
次に、アブソーベント・エイジ教育を適切に受けられなかった親が、子供にどうやってそれを伝えられるかですが、それは、英語教育に似ています。つまり、英語が喋られない先生が生徒に英語が喋られるようになるように教えることは、不可能だと思います。それではどうするかというと、英語が話せる人の力を借りるということになりますが、それも、今の日本の学校で行っているような、ネイチヴをテープレコーダー代わりに使っているようなやり方では、ほとんど効果がないと言ってもいいと思います。思い切って、すべての先生が英語を流暢にしゃべられる人ばかりにすることが、これからの英語教育の鍵を握っているような気がします(特に年齢が低いアブソーベント・エイジ世代の子供に対しては、英語が流暢に喋られる先生が必須です)。それと同じように、アブソーベント・エイジ教育が不十分だった親御さん達は、自分で勉強したり、専門家の指導を受けながら、ほかの親御さん達とも協力して、子供達が、いろんな能力を身につける環境を整えてやることが、悪循環を断ち切る、唯一の方法だと思います。つまり、この投稿で、最初の方でに述べたように、自分たちだけでは何も出来ないんだという「凡夫の悟り」こそ、人とつながり、自分本位にならない、共友育(ともいく)の神髄ではないかと思います。私は、そこのところを、これからの歩みとして、活動して行きたいと思っています。
余談ですが、そういったことを研究する学問として、私は、かってに
「SYNTOMOLOGY] と名付けました。茂木さんの好きな entomology のパクリ
な〜に、ただ、子供好きのおじいちゃんが英語の紙芝居やら絵本を子供達に読聞かせてみようとするだけのことですよ。