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「子どもとの付き合い方」について考える

これからの日本を考える上で、絶対に無視できない要素は、少子高齢化です。これは人口動態から考えて、非常に深刻な問題になることはほぼ確実でしょう。では、そういう時代において、我々は「子ども」とどのように付き合っていけば良いのでしょうか。

少子高齢化社会においては、子どもの重要性が相対的に高まるとも言えます。しかしだからと言って、腫れ物に触るようにしていては、子どもの社会化に問題が起きてきます。実際、イジメの問題も、子どもに対して社会の側が積極的に働きかけることができていないことも影響している気がします。

21世紀の日本は、「子ども」とどのように付き合っていけば良いのか。ご意見お待ちしております。

NO.12   trasque 2012/09/27 02:19:10 合計 15pt.

terurunさん
若輩で結婚もしていない私が言うのもおこがましいとは思いますが……

>子供は、白紙で生まれてきているのですから、本当に生まれもって悪い子は、
>いるのでしょうか。。。

断言します。生まれ持って悪い子など断じていません。
それを確信できる大人がどれだけいるのか。私はそこに「社会の成熟度」を感じます。



子供とどのように付き合うべきか。
「社会全体として」 と 「個人として」 の二つの視点で考えたいと思います。
結局は同じ所に収束していくのかもしれませんが、目指すべき形があるのではないでしょうか。
その収束を一言で表せば <語って語って、語りかけまくる> です。

前回の書き込みで私は「あらゆる人に、あらゆる命の方向性が、本来的に備わっている」という内容で書き込みをさせて頂きました。terurunさんへの返答として断言したのも、私のこの思いからくるものです。ある種、子供は「生まれ持って悪い子 でも ある」のです。もちろん「生まれ持って良い子 でも ある」のだと思います。どんな子も、ひとりの人間として「生命」を持っています。色んな感情を持ち、色んな表情を出します。根源的に、そもそもすべて備わっているもののはずです。

目の前に一人の子がいる時、私達は「平穏無事に過ごしてほしい」と願う事があります。ですが、人生は何が起こるか分からないのがリアルなところです。何も人生という大きな括りでなくとも、例えば仕事、例えば1日、全てが平穏無事である事というのは言ってしまえば不自然な事となります。茂木さんの仰る「偶有性」というものだと思います。私達は「平穏無事な立場・状況を手に入れることが幸せだ」と考えてしまいがちですが、それは本質的なことではないように私は考えます。

「人生は何かが起こらないという事などない」というのが<当然>です。まず、そこから出発したならばどうでしょうか。ここで幸福論を議論する訳ではありませんが、この<当然>に対してどのような立場を目指していくのかを探るほうが、よりリアルな幸福ではないでしょうか。
単純かもしれませんが「何が起こるか分からない」のであれば「何が起ころうと決して負ける事がない」状態こそがよりリアルで本質的な幸福で、願うべきものではないかなと思うのです。

どんなにお金を持っていても不遇に出会う事はあるし、思わぬ僥倖に出くわす事もあります。もちろん、そのたびに色んな思い悩みや壁にぶちあたるのが人間として当たり前の姿だとは思います。しかし、最終的にはどんなものであろうと乗り越えられると確信できるかどうか、ではないかと思うのです。そして、どんな人であれ必ずその力は備わっていると私は信じています。

しかし、その為には様々な体験が必要です。また哲学を知らねばならないと思います。一人では難しく、お互いに支えられる仲間がいなければなりません。目標となる人物、行動の指針となる人物・指導。そしてそれらを活かすための知識・経験。結局、色んな刺激や交流といったものがどうしても欠かせないものとなります。

目の前の「この子がもし将来絶望してしまいそうになった時、自ら立ち上がり前進できる何らかのきっかけになれれば」という切実な思いを、接する側の大人(人間)がどれだけもてるかだと思うのです。ちょっとした親の愛情だったり、尊敬している人の一言だったり、仲の良い人の励ましだったり、何が「きっかけ」になるかは分かりません。どれだけ長い期間ダメダメな状態になっても、最後には奮起して負けずに生きようとできるかどうか。gotoichiさんのおっしゃる「タネを植える作業」とは、こういった事ではないかと思います。

ですから(1つ目の視点)「社会全体として」考えますと、子供に対しては出来るだけ多くの人との出会い、できるだけ広い年代層との対話、できるだけ多様な体験談の伝達、そして哲学的な興味に対して真剣に答え語り合ってくれる土壌、が必要ではないかと思います。
特に、現代(特に都市部)では子供と20~30代の青年世代の交流があまりにも少ないと個人的に感じています。いわゆる外のお兄さんお姉さん的な存在です。ですがその為には、平日昼間にほとんど仕事に缶ヅメとなっている青年世代がもう少し自由にならねば実現は難しいのかなと思います。その自由も、理想を言えば青年たちが自らひねり出そうとする気概をもって勝ち取るのが良いと思います。

ただ、これらも語る大人たちに「哲学」がなければならないと思います。
先日ネットで知り合った高校生と語る機会がありました。私の病の体験や就職を勝ち取った話などをしながら、なぜ勉強をするのかとか、どう生きていくべきかといった、思春期らしい話題を出してくれました。できるかぎり真剣に答えたつもりでしたが、彼は「こういった話をマジメにできることなんて中々ない」と嘆いておりました。どこかそういった話を冷笑するような空気ができてしまうと言うのです。

学校の中で哲学的な話をすることに、子供達同志がからかうというのはありがちな事だと思います。ですから親なり教師なり、そして時にちょっと年上のお兄さんお姉さんだったりとの対話が必要になるのだと思います。しかし、いまや大人たちでさえ哲学的なことを「下らない」とする空気を持っていたりはしないでしょうか。どこか真剣ではない空気。ただ感情が先走る大人気なさ。真剣に対話するということは、とりもなおさず相手を信頼するところから始まる、という事を意味します。レッテルと感情先走りでわめき散らすだけとなってしまう大人に、私たちでさえ信頼を感じる事ができないのですから、子供こそ無理からぬ話です。

茂木さんの仰る「大人同士の、一人の人間として、お互いのリスペクト」とはそういったことだと思います。社会に哲学の求道心を濃くして、どんどん理性的に語り合う街の姿を作っていければ良いなと思います。
哲学を求める事は、生き方を求める事です。生き方を求めると、幸福を求める事になります。私は、幸福を求める事は「負けない人生」を模索する事だと思うのです。哲学を求め深める事は、偶有性というリアルの濁流の中に、折れる事のない鉄柱を貫くという建設の精神を鍛える事になるはずです。

「社会全体として」でした。
はじめ子供との付き合い方の議論と聞いて、何か子育てテクニック的な事を思い浮かべましたが、考えれば考えるほどもっともっと本質的な議論が必要だなと思うに至りました。


話は変わりますが、ヴィクトル・ユゴー「九十三年」に師弟についてのエピソードがあります。
人間の深い絆という関係性には、親子、主従、師弟、などといったものがあります。ことさら親子という関係は強いものと考えられています。しかし、誤解を恐れずに言えば、私は親子関係は決して「最強ではない」と考えています。(両親と私は結構仲が良いのでご心配無用ですw)
「九十三年」には、ある清廉厳格高名な元司祭が登場し、その昔一人の男子を教育したエピソードが描かれます。司祭はいわゆる学問から、思想、哲学、道徳などを惜しみなく指導します。縁によって、長い間二人は会わない時期がありますが、彼らは「師匠と弟子」として常につながっているのです。
その中でユゴーは「親でなくとも子を成せるのだ」といった表現を用いています。丁度スターウォーズのジェダイの関係のようなところです。

また「師」とは、向こうから現れるものでもありません。出会いのきっかけなどで、師の方から現れるといった場面はあるのかもしれませんが、師を師だと認めるのはあくまでも「弟子からの発意」でなければなりません。弟子が「この人は俺の師匠だ!」と宣言しなければ、それは師ではありません。師の方が、師弟関係を認めないとしたとしても、師を求める心は自由です。すでに遠い昔亡くなった作家や哲学者を師匠とする人もいます。認めてくれるかどうかではなく、師を求めようとする弟子であるかどうかが大切だと思います。

(2つ目の視点)「個人として」です。
師弟関係を持つ事。そしてそれを子供に語ることが大事だと考えます。
ちょっと師弟と言うと重いので、尊敬する人でも良いと思います。主従関係にあるような利益を含めた話でもなく、親子関係のような選択できない制限でもなく、あくまでも自ら求めようとする精神を伝えるには、師弟・尊敬のエピソードを語る必要があると思います。ですから、たとえ子供相手でも必然、見栄は張れませんし、真剣に説明しなければなりません。


最後に、社会全体・個人共々にして必要だと感じるのは「後の世界をどうぞよろしくお願いします」と本気で子供(赤子も含め)に頭を下げられるかだと思います。私もこれだけ書いておいて、何の戦歴もありませんが、私より後の世界をお願いするためにも、何かできることをしなければと、若い子と話をするたびに胸が熱くなるのです。私もまだ恐らく、あと50年くらいはこの世界にお世話になるので、彼らと進んでいく事になります。様々な経験を積んで、小さい彼らを少しでも励ませるようになりたい、何か大変な時のきっかけの1つにでもせめてなりたい、そういう風に願って止みません。その為にもっともっと「語って語って、語りかけまくる」挑戦をしていこうと思うのです。