「子どもとの付き合い方」について考える
少子高齢化社会においては、子どもの重要性が相対的に高まるとも言えます。しかしだからと言って、腫れ物に触るようにしていては、子どもの社会化に問題が起きてきます。実際、イジメの問題も、子どもに対して社会の側が積極的に働きかけることができていないことも影響している気がします。
21世紀の日本は、「子ども」とどのように付き合っていけば良いのか。ご意見お待ちしております。
最初に断りを入れておきたい。私には子供と直に触れ合った経験もその機運も絶望的に乏しい。興味うんぬん以前に、そういった環境や人間関係にほとほと縁が無かった。
だから以下で用いる”子供”という主語には、子供時代の私とその同輩たちを想定している。どこまで本性に迫れるか、私固有の特徴を除外できるか、どちらも私には判定できそうも無いので各人各々に汲み取って頂きたい。
主観が相手の問題ではまず私見を示しておくのが得策だと思う。必然、受け売りの知識や偏見や常識も含まれるだろう。それでも私見はコンテクストと主観の橋渡しをするものと考えているので、是非とも雑念を振り切って臨みたい。
では、私の考える”子供の性質”は以下の通り。
a.子供は無知である
知識・経験などの総量が、円滑な社会生活を送るために充分な水準に達していない。その為、突飛な言動や不道徳な行いを躊躇なく始めるが、その反面、常識に因われず偏見の少ない目線から、大人に示唆を与えられる
ただし、思考の基となる知識や経験が少ないので、その思考過程には相対的に不備や欠陥が多く、同時に、受け取った情報を総合的に解釈したり、その解釈を検めたり、自分の認識・観念を自ら修正する能力が低い。
b.常に知の飢餓状態にある
子供の場合、好奇心旺盛に見えるのは環境に対する不安の顕れと解釈すべきだろう。大人でも未知の環境に置かれれば同様の状態にはなるが、発達過程にある脳の欲求、類似性を見出す為の情報量の不足などを踏まえると、その飢餓レベルは比ぶべくもない。
論理的思考能力(或いは言語能力)の未熟さが飢餓を増長している面もあるが、論理思考を必要としない経験獲得(ニュアンスの汲み取り・雰囲気の察知・身体操作の習得・五感を通した感覚記憶など)では、大人には真似できないレベルで機転が利く。
c.子供には論理が通用しない
理屈ではなく論理である。目の前の結果とその原因を結びつけて因果関係を導いてくる手際は、寧ろ巧すぎてオーバーロードを始めるくらい達者だ。しかし経験を別の機会に活かしたり、因果そのものを展開させる為に必要な、一般性の表象・抽象化が苦手なので論理にまで発展しない。
この特性は大人にとって、同じ失敗を繰り返すように見えたり、「口で言っても分からない」といった思いを抱かせたりもするが、子供の驚異的な記憶力やニュアンスを汲み取る能力を考慮すると、そういった認識の方が間違っている可能性が高い。一般性を見付けるまでは諦めるべし。
d.時間の感覚がダイナミックに可変する
大人が経験的に取得する時間感覚は、膨大な事実関係の把握や、既に経験した状況記憶との対比によって説明できる。だとすれば、そのどちらも不足している子供にとって一定の期間・間隔を認識するのはひどく難しい。
つまり、時間の概念だけ教わっても、刻むための尺度を持たず”量”を測れないので、意識上は幾らでも伸び縮みさせられる。図らずもコンピュータを省エネ化する為に用いる、可変クロックと同じ原理と言えそうだ。
よく見せる集中力の高さや、言付けを忘れたり何時までも遊んでいたがる様子などは、ほぼ全てこの時間感覚の可変性で説明がつく。必要に応じて可変するのだから、その必要性を理解・比較することが出来れば、優れた能力にもなり得る。
e.情報のエラーやバグに弱い
これは無知であることに起因する、メタ認知や恒常性の不足が招く問題である。分りやすい簡単な情報にばかり接していて矛盾や不可解さを覚える機会が少ないと、誤った認識を獲得してしまった場合にエラーを修正できないので、大人よりずっと頑なに誤認識に固執してしまう。
バグに対する抵抗力は、普通、他の論理との整合性をとったり、根本的な原理・原則に照らし合わせて健全性を比較することで得られる。だから論理に弱く、常識に疎い子供には自力で解決できないし、まずバグを認識することが性質上、困難を極める。
f.知的飢餓に起因する感受性の高さ
常に不安をともなう知の飢餓状態にある子供は、並外れた雰囲気の察知能力を発揮する。子供のとる”子供らしい振る舞い”の多くは、その場の雰囲気に適応するための受動反応と捉える方が妥当だ。少なくとも生来的な特徴や一様の個性と見做すより、幅広いシチュエーションを説明できる。
更に、意味や仕組みといった論理思考を必要とする事柄にも並々ならぬ関心を示すが、やはり理解は出来ない為その対象が”聴き覚えのある響き”や”類推に使えそうな知覚情報”に傾斜しやすい。こうして汲み取られたニュアンスは精度がとても高く、総じて意味や内容は度外視される。
尚、子供が汲み取るニュアンスとは言わばその場面ごとの”質感”であり、そこから正誤を判断できる性質のものではない。相違や相似を見い出すことに特化していて、”違和感”や”好感”といった尺度の超上級者向け仕様だと思って間違いないだろう。大人のそれとは緻密さと次元数が異なる。
g.発達の準備期にある論理思考
言語能力については、幼児期から児童期にかけた展開が以後の発達とは異なる手順を踏むことは疑いようもない。このテーマは認知科学や発達心理学など広範な分野で扱われており様々な立場をとり得るので、ここではなるべく論理方面の私見だけ並べてみたい。
子供にとって精度の高いニュアンスや雰囲気ほど頼りになる情報は他に無く、記号としての単語の意味などは漫然と保留しておく特徴があるので、言葉のディテールには関心が向かいにくい。また、ニュアンスを掴む手段として有効な”語呂や音のパターン”に敏感で、パターンの記憶も驚くほど巧い。
環境要因が大きく一概には言えないが、子供の性質から典型的な発達過程を推測すると、【標準ニュアンスの獲得→低次パターンの蓄積→高次ジレンマの発見→再構築→標準化】といった順序で螺旋状にループを描き、段々と高度化しながら手段そのものの最適化・使い分けへと発展するものと思われる。
どうも文脈や文章から意味を”読み解く”作業は、高度であまり期待できそうもない。それよりもっと多くのパターンに触れ、「電池が切れる」みたいな慣用・比喩表現でジレンマを促す方が堅実だろう。依然、ニュアンスへの信頼は厚いので新しい事を始める際は、適切なポーズを示すと上達を早められそうだ。
―以上、私の考える”子供の性質”の概要、終わり。
意外とまともな内容に落ち着いたように思うが、どうだろう。持論の部分には大人との比較や、子供特有の問題に対する着眼点を盛り込んでみたので、少し違和感を感じて貰えたら首尾よく話を展開できたということだ。
今回のテーマは「子どもとの付き合い方を考える」なので、対象となる”子供”の性質を述べ終えた時点で私の考えはほぼ出し切った形になる。だからここからはあくまで傍論、方程式を展開して検討するような作業に取り掛かる。
a.~g.のタイトルだけに着目すると、その観点と対象との位置関係が一定でないことが分かると思う。単純な”大人目線”もあれば”アカデミックな視点”に見えるものもある。下の説明では更にもっとコロコロと視点が移り変わっている。
特に意識したわけでも無いのだが、結果として表現や説明そのものは上手くまとまっているのではないか。なにも自賛したいからお伺いを立てている訳ではない。一定の視点から眺めても、人格は正しく捉えられないと主張したい訳だ。
一応、a.~g.の順番は見掛け上分り易そうなものから降冪順に並べてある。なのに明確に”外からの目線”と言えそうなものは、a.c.f.g.辺りで不規則な歯抜け状態になっている。どうでも良さそうに思えるが、意外と馬鹿にできない。
恐らく、大人が自覚的に子供について考える時、意識の上では論理などを用いて普遍的・一般的な説明を試みるが、観測時には対象である子供を”人間”と見做したり、”子供”と突き放したりしないとその特徴を識別できないのだと思う。
考えてみれば”大人の定義”だって曖昧なのだからそれは当然のことなのだけど、改めてこうやって書き出してみると、やっぱり曖昧ではあるもののじっくり考えたことでそれなりに”精度良く”自覚できたように感じる。曖昧、上等。
観測だとか、なにやらテーマとは掛け離れているようだが、私にとってはド真ん中である。何しろ子供と会わない、知らない、問題があることにすら気付けない立場にある人間なのだから。
私には自覚より優先すべき事柄は無いし、恐らくこれは誰にとってもそうである筈だ。事実、あらゆる紛争の背景にあったのは相互理解の不足や、解釈や前提の食い違いではなかったか。
子供が特別な人間だとすれば、理解と自覚はほぼ同義であり、相互に補完し合う知見と言える。分からないことは無くせないだろうし、問題はもっと複雑だろうけど、それでもどちらか一方が100%正しい何てことは、先ずあり得ない。
だから私は”精度の良さ”を求めたい。この問題に100%の正解はあり得ないけれど、100%を目指して理解と自覚を深める努力、精度を追求するエンジニアのような姿勢がどこかしら必要なのではなかろうか。
まとめに入ろう。散々”子供と距離があるアピール”をしてきたが、実際のところ遠目から変な遊びに熱中しているヤツを眺めるのは面白いし、砂場で意味深な動作を繰り返す様子もシリアスで好きだ。
遠くで子供が泣いていればつい住所の見当をつけてしまうし、グラウンドを駆けまわってるサッカー小僧を見掛けると、正直、混ぜて欲しくてしょうがない。言葉の覚束ない幼児など、それこそ常に新しい発見があって見ていて飽きない。
しかしそれもどれも、みんな半径30メートル圏外の眺めか、車窓越しの隔たった光景ばかり。それ自体は淋しいとも残念だとも思わないが、普段から限られた大人に囲まれていつも同じ顔触れのお友達と遊んで、バスの送り迎え付き。
そんな環境が発達に良い影響を与える訳もなく、それだけは、子供を取り巻く環境だけは、とても残念だし憤りさえ感じている。聞けば、今はもう公園でサッカーボールが蹴れないそうじゃないか!そんな馬鹿な話があるか。
子供は楽しいところに寄ってくる。楽しい大人には群がる、触る、揉む、叩く。すべて何かを吸収したい気持ちの顕れと言える。でも、本当に吸収できるのはそのニュアンスとパターンだけで、意味なんかどうでも良い。
なにか子供に身に付けさせたいなら、大人が本気で本域のポーズをとってやればいい。それが最適パターンとして刷り込まれる筈だ。でも、子供の能力を考えれば10や20のパターンじゃ全然足りない、映像なんかで”質感”は補えない
なにか子供に問題があるなら、まず第一に疑うべきはその問題を感じた大人の認識の方だろう。昔からよく言うじゃないか、子供は鏡だと。
問題は面倒なものだけど、もし気持ちがエンジニアになっていれば、「見付かって良かった。危なかった!」と、胸を撫で下ろすところだ。人は機械じゃないけれど、精密さで言えばパソコンなんて百台集めたって人間には敵わない。
そしてエンジニアなら、問題の症状から不具合の原因として考えられる何通りかの候補を挙げて、すぐにバラしたりせず挙動を確かめる。そうしないと、不具合を特定できないからだ。まぁ、その後で結構な扱いをするけど。
子供に対して「こういう態度で付き合いましょう」とか「ああいうことはやっちゃいけません」とか、格言染みたことを言っても、多分どれも正解とは言えないだろう。その程度には複雑だし、想像を絶するほど難解でもない。
理解とまったく同等に自覚が大切だということと、多彩なパターンや適切なニュアンスを余すところ無く活用できるということ、天使でも天才でも愚かでも子供らしい訳でもなく、多様な未熟さを持つ小さな人間だということを、最後に確認しておきたいと思う。
長文、失礼、感謝。