「子どもとの付き合い方」について考える
少子高齢化社会においては、子どもの重要性が相対的に高まるとも言えます。しかしだからと言って、腫れ物に触るようにしていては、子どもの社会化に問題が起きてきます。実際、イジメの問題も、子どもに対して社会の側が積極的に働きかけることができていないことも影響している気がします。
21世紀の日本は、「子ども」とどのように付き合っていけば良いのか。ご意見お待ちしております。
昨日、銀行で、椅子にかけながら順番を待っていると、隣に、5、6才の男の子を連れた、若い夫婦がやってきました。そこで、その奥さんの方は、鞄の中に手を入れながら,何か用事をしようとしていたのですが、子供がまとわりついて邪魔になったのか、突然、
「うるさいな! じっとしとれって言うとるやろが!」と子供を引き離して怒鳴りつけました。当然のことながら,周りの雰囲気は、凍り付きました。
私は、一瞬びっくりしたのですが、これはまずいと思って、「そんなこと言うと、子供に全部移るよ」 となるべく普通のトーンでたしなめて見ました。そしたらその奥さんは、すぐに、申し訳なさそうな顔になって、「本当にそうかもしらんね」と言ってくれました。私は、心の中で「坊主、よかったな」と思いました。それで、緊張していたその場の雰囲気が和らぎました。
この奥さんは、たまたま、人前をはばかることなく、虐待ともとれる躾をする人だったから、他人のアドバイスを受けることが出来たのですが、子供と親だけの空間で、虐待を受けている子供達は、きっとものすごい数に上るのだと思います。そういう虐待や、また、反対に極端な甘やかしが子供に全部刷り込まれて、それが、学校での問題行動になり、歪んだ社会を生み出していくことになるのだと思います。私は、就学前の子供達の育ち方が次の社会を決定づけてしまうという考え方は間違っていないと確信しています。
確かに、茂木さんの言われるように、子供の成長には、一人の人間として真摯に接することが必要不可欠です。また、今の大人に、それが出来れば、日本の将来は、例え貧乏になったとしても、少しも心配しなくても良いと思います。子供達は、自分たちで、幸せな国家を確実に築いていってくれるでしょう。世界中に幸せを広げることさえ出来るようになるかもしれません。
問題は、茂木さんも言われる通り、我々大人が、真摯に接することが出来ないというところにあると思うのです。どうしてそれが出来ないのでしょうか。今回の投稿者の方々の、「子供とのつきあい方」に対する考え方は、それぞれにすばらしいものばかりだと言うことは、誰でも納得するでしょう。しかし、私は、それでも、何か一つ欠けていることがあるような気がしてならなかったのです。それが、この投稿のことを考えているうちにやっとのことでそれに気づくことが出来たような気がします。それは,我々が言うところの「如来の目」といわれるような類いのものです。
これは,茂木さんが言われるところの、自分の行動や心の動きをちょっと離れたところから客観的に捉える「メタ認知」と似通っているところがありますが、「如来の目」は、特に自我執着に焦点を当てて、それを客観視するという目を戴くということです。その目を戴くとどうなるかというと、例えば、親鸞は、自分のことを愚禿といい、良寛は大愚と言ったように、誰はばかることなく本心から「自分は愚か者である」と公言できるようになる。そして、一度その様な心境になると、自分の見方に「上から目線」的な要素が無くなるということだと思います。親鸞は、さらに、「親鸞は弟子一人も持たず候」とも言っているように、究極の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」思想を体現していくことになります。(現在の浄土真宗は、一部の求道者をのぞいて、「如来の目」には関心がなさそうですが)
余談ですが、慶応大学では、教師や学生、事務方を含めて福沢諭吉先生以外は、お互いに、「君」付けで呼び合う伝統があると聞きましたが、これも、立派な「上から目線バスターズ」ではないでしょうか。(「福沢諭吉先生」は「福沢諭吉さん」の方がいいように思う。余計なお世話?)
何はともあれ、子供とつきあうには、真摯に接するのは勿論、目線の高さを同じにするということは、ほとんどの皆さんが述べておられることですが、私はこの対等目線こそ、自分のエゴと向き合う試練の場所だと思ってしまうのです。(子供には、かわいいながらも、何もかも鋭く見抜かれてしまいます。draw_spine さんfに納得)だからこそ、このことは、一生かけてでも、自分には出来ているのかを問い続けて行く問題だと思っています。
そして、子供達と対等な目線が成立して、お互いの心がつながった時、私が抱いている子供達に対する思いも素直に子供達の心に吸い取られていくような気がしています。(正に、アブソーベント)
この、対等目線は、子供達は、元々持っていて、それが言葉からだけではなく、いろんな形の情報を偏見無く、貪欲に吸い取っていける理由なのではないかと思っています。それが、アブソーベント・エイジをすぎた頃から、だんだんと飼いならされ、偏見の雲が頭の中を覆うようになる。その偏見を除いて、又少年、小女のような、とらわれの無い心を取り戻すには、「如来の目」あるいは、キリスト教で言うなら、「神と私の一対一の契約」(これが、自分のエゴと向き合うキリスト教での方法論であるのかは、私には、はっきりとは解らないのですが、キリスト教に詳しい方がおられたらお教えください)によって、自分自身を見つめ直すしか無い。宗教が、人間にとって必要とされるのは、このように、自分自身の自己執着から自由になって、心の底から、他の人とつながりを持つことが出来るようになることが期待されるからではなかろうかと愚考しています。
ともあれ、子供達は、周りの環境や、特に、人間の関わった自然の中から、多くのことを吸収し、夢や、希望、言葉、その他の能力を伸ばして行くように見えます。我々は、それに合わせて、精一杯環境を整えて行きたいと思っています。そして、それが、何にも増して、我々がやらなければならない最も大切な聖業ではないかと思っています。
最後に、この投稿で、始めにエピソードとしてあげた親子のことに関連して。今の子育ては、つくづく社会から遊離しているところで行われていると感じざるを得ません。どうにかして、再び、教育を開かれた社会の中で行うことが出来るようにならないものでしょうか。誰かが書いておられたように、外国人の目を通してみると、江戸時代の日本の子供達は、貧しいながらも、本当にかわいがられていたらしいということです。想像すると、そこには、理想の教育環境があったと思われます。豊かな自然の中で、人々のつながりの中で、寺子屋の中で、然し乍らも、親を助ける誇らしさの中で子供達は、世の中を切り開く力を身につけて行ったのだと思います。(少しやり過ぎたけど)