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「子どもとの付き合い方」について考える

これからの日本を考える上で、絶対に無視できない要素は、少子高齢化です。これは人口動態から考えて、非常に深刻な問題になることはほぼ確実でしょう。では、そういう時代において、我々は「子ども」とどのように付き合っていけば良いのでしょうか。

少子高齢化社会においては、子どもの重要性が相対的に高まるとも言えます。しかしだからと言って、腫れ物に触るようにしていては、子どもの社会化に問題が起きてきます。実際、イジメの問題も、子どもに対して社会の側が積極的に働きかけることができていないことも影響している気がします。

21世紀の日本は、「子ども」とどのように付き合っていけば良いのか。ご意見お待ちしております。

NO.24   draw_spine 2012/10/01 03:51:02 合計 5pt.

NO.13のdraw_spineです。NO.19の茂木さんのコメントに対し、微妙に反論を試みます。

子どもの成長は大人が制御できない・するべきでないという点はまったくその通りだと思すが、それぞれの関係性については疑問を感じました。
すっかり大人に成りきってしまうと時間感覚も肌感覚も子供とはあまり共感できない(爺ちゃん婆ちゃんはこの辺り本当にフレキシブルで凄い)ので、確かに子供同士の付き合いの方が色々と実りも多いでしょう。
ただ、そこに対等の関係を望むか否かは本人同士が判断するなり感じ取るなり、出来るようになって欲しい部分であって、「どうすれば対等になれるか」とか「ゆとりを持とう・与えよう」という発想は、幾分ナンセンスだと思うのです。

例えば今まで”子供同士の関係”などと一括りに考えてきましたが、本当に子供同士が刺激し合い成長や実りを期待できる取り合わせは、「同年齢の男女混成グループ」でしょうか。多分、違うはずです。
恐らく、2~3歳くらい年の離れた同性同士、或いは、同じく3歳ほど年上の女子と若年の男子で作ったグループの方が、ずっと色々な刺激がありつつコミュニケーションにも支障が出にくいように思います。何よりこの状況なら、すこぶる主体性が発揮されやすい。
こうした場面を想定すると、子供同士でも対等な関係が望ましいとは言えなくなります。遊ぶにしろ学ぶにしろ、年長組がイニシアティブを放棄すればグループは迷走するし、若年組の思うままになればグループの体を成しません。
どこか体育会チックな例えですが、国や地域に関わらずこれは社会の要請として誰もがそう振る舞って欲しい、こういうお約束は守って欲しいと思えるような健全な指向性では無いでしょうか。

私は常々”科目ごとの飛び級制度”が欲しいと考えているので、年齢や男女比率が流動的なクラス編成に抵抗感がありません。しかし、上の例は別の観点から発想しています。
NO.13で述べた”子供の性質”は、なるべく依存関係や気遣いみたいな社会的制約を排除しながら考えた、私自身の私見であり場合分けの条件です。少なくとも、当初の目的は考えを明示することでした。
ところがいざ書き出してみると、なんとも情けなくなるくらい自分にも”子供の性質”が認められ、健全性や社会理念に照らし合わせてみると、大人が大人に成りきれていない実態がありありと浮かんできました。
幸か不幸か、社会的制約を排除していたので言い訳じみた事は書きたくても書けず、途中から”自覚の為の文章”にすり替えました。そうすることで”大人の自覚”ではなく、”子供っぽい自覚”にはっきりとした輪郭を与えた次第です。
こうして要素ごとに”子供の性質”がはっきりすると、自分自身の人格がちぐはぐと成熟部分・未成熟部分に塗り分けられ、モザイクみたいな様相を呈しているのが分かるので、人を年齢で区別することの無意味さをより強く実感できます。そして、社会的制約のある現実に戻ってくると大変な事態に気付くのです。

大人と子供の間には忽せにできない経済的・精神的な依存関係があり、その一部(or大半?)は非可逆の影響と言えそうです。子供同士の場合でも、友達付き合いには局所的な依存関係が伴い、良好な関係を保つには部分的なリスペクトが相互に求められます。(アイデアを拝借)
ところが実際のシステムの中では、依存関係や影響の可逆・非可逆性はあまり意識されず、また人格のモザイク様相もさっぱり無視されるので、外から「平衡状態」を与えられても子供同士は、右も左も分からぬまま対人関係の最適化を、随時全方位に対して行わなければならず、当然、衝突や失敗のリスクが高まります。
諍いやいがみ合いも経験の内と見做す向きもあるでしょうが、私にはそれが教育の怠慢と映ります。そこでカウンターとして考えたのが、上で示した”年齢差のあるグループ構成”です。寒村の小学校などをイメージすると分り易いでしょう。
年齢、性別、目的、習熟度など、グループ分けの条件には色々ありますが、どれにも言えることは管理者にとって都合の良い画一性が優先されていることです。これをちょっと恣意的に、子供の主体性を引き出す為に操作するのは不公平でしょうか。
不平等ではあります。しかし社会理念に照らして考えれば、公平性は逆に高まっている筈です。ひたすら管理は面倒そうですが、情報機器を駆使すればあとは知恵の使い様でしょう。そういうマニュアル化なら私は大歓迎です。

大事なことは、やっぱり主体性と自律の精神を引き出すことでしょう。これは教えても身に付くものではありません。グルーピングの範囲を広くとって時折ガラガラポンとやれば、上手くいくものとも思えません。
効率や特定の目的だけに留意して、管理する側に都合の良い選別・グルーピングなどを行なって作り上げた画一的な環境は、ごく短期的な作業集中に適したシステムです。(ここまで抽象化すれば、大人と子供の境界は溶けて無くなります)
もっと主体性や自律判断が必要ならば、多少の面倒臭さや短期的な成果は二の次にして、画一的な環境を崩してやる事が先決だと考えます。ただ範囲を広げるのではなく、ちゃんと計画性をもって色んな条件の人を寄せ集める形で。

こういった手法にはかなり高度な判断と計画性が求められるので、とても個人レベルでは実行できません。それこそ本来的に行政が計画を練って、広く一般に提供するべき教育システムでしょう。学問・学術方面はプロの意見を聞きたいところ。
保護者の負担を減らして、子供の心身の機微を見抜くという大変な役目を果たして貰うことも必要です。その為には手間や心配事を減らさなければならないし、何より教育システムが信頼できないと何をやっても上手くいきません。
まずは「発見・判断」を保護者に、「手段の選択・処置」は行政にと役割分担のルールを定めて、ごちゃごちゃで出口の見えない教育システムに、相互運用を通した信頼関係を結ばないと事態は好転しないと思います。
どんな方法を採るにせよ、今の(日本の)教育施策やその理論、大人の一般的な認識はまだまだ未熟であるという認識に立ち、もっと公平に、もっと向上心を持ってダイナミックに進化することが大前提となる筈です。

馴染みのない領分を扱ってきたので、なんだか頭が凝ってきました。TomoikukaiさんがNO.14で「神と私の一対一の契約」について触れておられたので、気分転換にちょっと言及させて頂きましょう。
とは言え私もプロテスタントの教義に少し心得があるだけなので、キリスト教全般のことは分かり兼ねます。軽く参考程度に読んで下さい。

Tomoikukaiさんのおっしゃる通り、「神との契約」はエゴと向き合う手段と言えますが、その精神はあくまで主体的な自律を目指すものです。
「神との契約」は割礼や宣誓などの際に確認するもので、個人が内なる”原罪”に打ち克つ決意をする「誓いのセレモニー」として、儀礼の中に盛り込まれます。聖書の上に手をかざして行う、米大統領の就任式典で見られるアレです。
変な話に聴こえるかも知れませんが、プロテスタントは7歳頃から常に自分の内にある”原罪”を意識するよう諭されるので、内なる罪に負けないよう手本として原罪を持たぬ神や聖霊、或いは原罪に打ち克ったメシアや聖人を心に思い浮かべて、セルフ暗示に努めます。

「父なる神、救い主、導き手、創造主、羊飼いetc...」と多くの呼び名が示す通り、神の存在は一言では言い表せない幅広い意味を持っています。しかし、そのどれをとっても神格は一人称であり、そこが一神教たる所以です。
なので(厳格な)プロテスタントには、「如来の目」のように自らの人格を客観視したり、或いは自身の内面を批判的に捉える視点は、”個”の同一性を疑問視する考え方として背徳的に映る場合があります。
なにせ、全能の神が一人称で「契約」を結べるような方ですから、同一性が無いとなればお互いに”責任”が持てないのです。

彼らの社会では「人は間違いを犯すもの」という認識が根本にあり、善行や悪行といった”結果”に対してはアグレッシブですが、”罪”は告白すべきもので、償いそれを赦すことなどが美徳とされます。(なので罪を探り出す行為自体が善行になります)
つまり償いにせよ奉仕にせよ、あけっぴろげに罪を認めてしまうことが、プロテスタントにとって誇りある行動なのです。
一歩下がって眺めてみると、みんなが勇者を目指しつつ、同じくらい勇者を称えたいと思える、そんな上手い構図になっています。

また、7歳未満の子供はみんな「聖霊に守られた存在」として、敬々しくもほったらかして育てるのが良いとする向きがあります。
面白いのは本当にほったらかしておきながら、子供には「貴方の頭の上には聖霊様がいる」と教えることで安心感を与え、自発的に行動する意欲と自信を持たせるのです。(でもやっぱり野放し、悩んだりしません)
ただでさえ怖いもの知らずの子供が自発的に行動しだすと色々問題も起こしますが、モノを壊そうが不法侵入しようが、7歳までは叱りつけて償わせれば”聖霊に免じて”お咎め無し、というルールが適用されます。(親は弁償の代わりに、相当のチップを置いていくのが一応のマナー)
子供同士の喧嘩も同様ですがこの場合は、「聖霊様はみんなに一人ずついて、貴方の暴力を止めようとした聖霊様は貴方を守って傷付いているし、貴方の暴力は相手と一緒にその聖霊様も傷付けた。」といったお説教をします。
ひどいようですが、これを聞かされるとほとんどの子供がショックを受けて泣き腫らすそうです。暗に自分の行為の重大さを感じとるからでしょう。そう、私は勝手に想像します。
そうすることで中には性格が一変してしまう子供もいるらしいですが、都合よく捉えればそれだけ効果が期待できるとも言えます。
一般にキリスト者の目指すところは依存や制約ではなく”自律”なので、こうしたダイレクトに心を責めるやり方で、彼らなりの社会通念を刷り込むのです。

重要なのは”神のもとの平等”という考え方が、公平さの基準になっていることでしょう。彼らの”公平さ”に比べると、日本の風習的な公平さは曖昧なために平和裏に解釈を変えられますが、頼りなくて貴べるものではありません。
また、長くなってしまいました。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。