「カムバック」について考える
みなさんは「カムバック」ということについて、どうお考えですか? ご意見お待ちしております。また、もしよろしければ自身のカムバックの経験なども書き込んでいただけると嬉しく思います。
一昨日、iPone5 をソフトバンクショップで予約してきました。ココロは、back to the 小学5年生です。敦賀は田舎だからモノが来るのは2ヶ月先になるそうですが、待ちきれないココロが2ヶ月も続くなんて幸せすぎる!これで、hungry priest に iPad, Mac Air, iPhone5 の三種の神器が揃います(但し、iPhone5 は、家族の共同使用だけど)これでもう少し、若かったら、若い頃にカムバック!・・・ちょっと苦しいか・・・
・・・ということで、今回は、日本のカムバックについて書いてみようと思います。
今、日本は本当にダメになりました。私が、バングラデシュで協力隊の野菜隊員をしていた30年ほど前までは、日本はキラキラ輝いていました。インドやバングラ、東南アジアの国々、いやいや、中国、アメリカ、ヨーロッパ 世界中の人々が、日本製品に憧れていました。貿易障壁もなんのその、世界中の人が欲しがるせいで、日本からモノが溢れ出て行きました。貿易黒字は、止めようとしても止まるものではなかったのです。おかげで、国外在住の我々も日本人ということで大いに誇りを感じていました。日本製品を手に取った人達にとって、それを作った日本人のいる日本に行くことも、また憧れだったのです。バングラのカウンターパートは、日本製品の強さをこう解説してくれたものです。
「アメ車は左ハンドルを変えないけれど、日本車はその国に合わせて、ハンドルの位置を変える。アクセサリーもその国に合わせて、欲しいものがついてくる。消費者が何が欲しいのかをちゃんと解って、モノを作っているから何でもよく売れるんだ。」
その頃の日本人は、「ナベ蓋売り」で鍛えられる近江商人の集まりかと思うような感じで、まじめで、一生懸命何が売れるのかを考え続けていました。一抹の不安は、大使館の一等書記官でさえ英語が流暢に喋られなかったことでした。これでは、外交ではとても勝負にならないわな、と思っていました。そんなこともあって、私はカウンターパートに、いつも「日本は今、絶頂期だけど、奢りすぎると、三代目が身上を潰すのたとえ通り、そのうちダメになるからネ。その時は、バングラデシュの皆に助けてもらうようになるかもしれないからね。」と言っていたものでした。これは結構本気だったんです。
時が進んで、日本に帰ってきてからは、バブル経済が始まりました。この頃はもう、人のココロは、「お金、お金」で、何もかもお金で解決してしまおうという気分で覆われていたような気がします。そんな中で、何が大切なのか,何が本当にしなければならないことなのかが、どんどん曖昧になって、大切な人との大切な絆もどんどん断ち切られていったような気がします。しかし、この間も、日本製品は飛ぶように売れていましたから、株高、円高、物価高が同時に進行し、日本人は有頂天になり、だんだん傲慢になっていったようです。私は、人に会えばいつも「三代目の悲劇」論を繰り返していたのですが、耳を貸してくれる人は、現役を引退したお年寄り達ばかりでした。そんな中で、日本人は,日本のモノ作りの原点であった、使う人の身になって考えるという手法を忘れ、日本人が作ったモノだから間違いない、という独りよがりな態度で製品開発をするようになっていきました。これでは何もかもがガラパゴス化していくのも仕方のないことでした。それに変わって、現地のニーズを把握しながらモノ作りを進めてきた韓国が日本を追い越すのは時間の問題だったといえるでしょう。
そんな中、私は、平成元年、バブル期の真っ最中に突如思い立ち、パソコンと英語をマスターすることを決心しました。今、思い起こすと、何故そう思ったのかは定かではありませんが、何もかもが曖昧な世の中に、何か確かな足がかりになるものを求めていたような気がします。パソコンはNECで、MS-DOS と一太郎、ロータス で始めました。その頃はまだ、インターネットが使える環境ではなかったので、ゲームやポルノにハマらずにコンピューターの何たるかを学べたのは幸いでした。今、ジョブズの三種の神器に出会って、それを使いこなせることの喜びは、この頃の MS-DOS 君との格闘があったからこそ感じることが出来るのだと思います。私の英語の方も、ユックリではあるけれど、パソコン環境の進化と共に着実に上達していったような気がします。
ということで、元に戻って、日本は今、本当にダメになりました。でも、その「ダメ」に気付いていない人のなんと多いことか。「ダメ」と気付いていない人に対して、「日本のカムバック(日本の復活)」を説いてみても、ただ「変人」扱いされるだけでしょうが、「日本はダメだ」という認識から出発しないと、復活どころか、敗者復活戦にさへ出られなくなるというところまできているというのが、「このままでは日本はダメだ」と感じている人達の共通の認識だと思います。
それでは、なぜ、多くの人は日本はダメだと認識することが出来ないのでしょうか?まず考えられるのは、奇跡的な戦後の復興によってもたらされた、成功体験による奢り。多くの人は、外国には、観光ぐらいでしか行ったことがないのに、日本ほどいい国はないと真底思っている。そして、その奢りから生じた、英語音痴(ほとんどの人は、外国人に対して、日本に来たんなら日本語を話すのが当然と思っている。日本語が話せないとわかると、ココロを閉ざすか、バカにする)そして、パソコン音痴である。(ほとんどの人は、インターネットと聞くとポルノを見るかゲームをするものだと思っているし、フェイスブックと出会い系サイトとの区別がつかない)
日本が世界の中でどういう位置にあるのか、日本は外国人からどう理解されているのかを知る為には、今の世の中では、英語とインターネットを使って世界中の人々とコミュニケーションすることが欠かせませんが、日本人は両方とも力不足で、外国の状況を知るには、英語がわからない故に、物事の本質を捉えることの出来ないと思われる、マスコミの人達(多くは匿名か素人)のもたらす偏見に満ちた記事や番組に頼ることになってしまいます。Think globally, act locally. 以前誰かが書いておられましたが、内政をしっかりと行う為には、世界的な視野を持って考え、行動することが要求されます。しかし、今の日本の多くの人達には、とにかく、Think globally が欠けているように思われます。こんな状況で、我々は、これから日本を引っ張っていけるような指導者を選ぶことが出来るのでしょうか?
政治家のレベルはその国の国民のレベルで決まるとよく言います。確かに、バブルの前までは、農業系議員が多数を占めていたし、バブルになってからは建設族議員が新幹線や高速道路を餌にして、景気が良かった。バブルがはじけてからは、あっちへふらふら、こっちへふらふら。とても国民のレベルを自慢できるというものではなかったのは確かです。だからこそ、これからはみんな一生懸命英語をマスターして、ジョブズの三種の神器をそろえて、英語でツイッターをして、フェイスブックで茂木さんと友達になって、国民のレベルを上げる努力をしなければなりません。衆議院選挙まであと、2、3ヶ月しかないので、ユックリしている暇はありません。すぐ取りかかりましょう・・・なんて、もしかしたら、戦後の高度成長期には、結構本気で取り組む人がでてきたかもしれませんね。今は、若い人でも、英語がネックになって、この、満々たる ICT(インターネット アンド コミュニケーション・テクノロジー)の大海を自由自在に泳ぎ回れる人はごく少数に限られるのではないでしょうか。
国民のレベルは、今すぐに上げることは不可能です。それじゃ、やっぱりそれに合わせて政治家のレベルも低いままで・・・と言う訳には行きません。それでは、永久に低いままで、いつか、日本は沈没します。何かいい工夫はないものでしょうか? つまり、レベルの低い国民を、レベルの高いところまで引き上げてくれるレベルの高い政治家を選ぶ方法です。今回の選挙は、ここのところが一番のポイントではないでしょうか? それに対して、今までの選挙では、志の高い人は、一部を除いて、その志の高さ故に選挙には勝てなかったのではないでしょうか。
茂木さんにお願いしたいのは、メタ認知力をはかる装置を開発して、立候補者が出そろったらツイッターで、候補者一人一人のメタ認知力指数を発表するとか、ミラーニューロンの活性化程度を投票の参考に出来るシステムを開発するとか・・・そのままでは無理でも、なんかそれに類する方法はないもんですかね。アメリカでは、国民は、そんなことを、優秀なニュースキャスターによる、インタビューかなんかで知ることが出来るのだと思います。
私が考えた方法は、候補者一人一人に日本語が喋ることの出来ない友達(恋人でもよい)がいるかどうかを聞いて、いたら、スカイプで、今話題になっている政治問題の中から一つ選んで、ディスカッションしてもらう。もう一つはポルノとゲーム以外で、インターネット環境をどのように使っているのかを話してもらう。これで、多分、老害候補者は皆無になると思いますよ。とにかく今回の選挙では、英語を使うコミュニケーション能力にすぐれて、パソコンに強い議員が選ばれるようにしないと、世界から見放されてしまうことは疑いがないように思いますが、いかがでしょうか?
まだまだ心配のつきない今回の衆議院選挙ですが、民間の私らとしては、結構、国民のレベルを上げるのは、諦めていますが、ただ、普通の人々が、気軽に英語を使うようになる環境が作れないものかといろいろ画策しています。勿論話しの中心はアブソーベント・エイジの子供達とそのお父さんお母さん達。昨日、青年海外協力隊の関係者の方にお願いして糞掃衣(東南アジアのお坊さんがきている黄色い衣)をスリランカから送ってもらうように頼みました。ひと月程したら届くそうです。iPone5 程ではないですが、待ちどうしくて、今もウキウキしています。
それを着てどうするのかって? シンガポールのお寺の坊さんになりきるのです。裸足で歩いて、日本語は聞けるけど話せないことにして、子供達に英語の紙芝居を読んであげようと思っています。
Tomoiku eye (目線) Tomoiku hug (ハグ) Tomoiku love (双愛)
の実践です。
chigusaotsuki さん、くよくよしてないで、インド人に変装して子供達に英語の紙芝居や、絵本を読んであげてくれませんか?きっと新しい世界が生まれると思いますよ。
それから、「子どもとのつきあい方」について考える で 「神との契約」について、プロテスタントの教義について,解説してくださった draw_spine さん、大変参考になりました。ありがとうございます。
でも、「如来の目」については、少し誤解があるようなので、説明させてください。私は、「如来の目」は特に自我執着に焦点を当てて、それを客観視する目を戴くと書きましたが、それを客観視するのは、自分であって自分でない。つまり、浄土真宗では、それを他力と名付けているのです。それで、親鸞も、法然聖人のおおせには、「源空(法然)が信心も,如来よりたまわりたる信心なり。善信房(親鸞)の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。」と、教えを伝えているように、一人一人「如来の目」が違う訳ではなく、draw_spine さんの言われる、「神」と同じように「如来の目」にも同一性があると言っていいと思います。しかし、それが、実際に自分に働く時には、「神」も「如来の目」も「メタ認知」という形を取って、自分を客観的に眺められる能力が身に付くということではないでしょうか。「メタ認知」は自分の煩悩が見えるのに対して、「神」や「如来の目」はその煩悩を操る「黒子」を見破るという感じでしょうか。しかし、神の方は、七才までに意識的に導入されるのに対して、他力の方は、自意識が芽生えた後になって「気付く」というかたちを取るということが違いと言えば違いでしょうか。私は、日本も昔は、幼い頃に、自由に遊びながらも、他人に対する思いやりや、自立のココロを育むプログラムが、社会全体に仕組まれていたのだと思っています。つまり、「如来の目」に気付く土壌は、幼い頃の養育環境に織り込まれていたのだと思います。「日本のカムバック」には、日本の歴史に育まれた、かっての「日本製品」に見られるように、この「メタ認知」がふんだんに盛り込まれた文化の復活が鍵となるでしょう。
纏めると、今度の選挙は、「日本のカムバック」が成るか成らないかの選挙であり、日本の将来を切り開いていく人材を見つけるまたとないチャンスでもある。そして、日本の明日を切り開く為にもっとも重要な施策は開国であり、そのためには、全面的な教育の見直し、特に、アブソーベント・エイジを中心とした、英語教育とICT教育、それに、利他心に焦点を当てることである。
今回は、反論や訂正がなければ 投稿は「いっかいこっきり」とします。