嫌いな人は、なぜ気になるのか
僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。
近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。
みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。
ツイッターでの、発言で、好きか、嫌いかという、感情世界の中に置かれるのは、避けられないことです。ここには、ボウエンが、決定的に重要とみなすものがあります。
つまり、ツイッターは、最初に、読まれる存在なのです。
ツイッターをあけて、みんなのツイートが出てきたら、まずは、アイコンを見て、名前を見て、読みますよね?
これが、ボウエンのいう、反応です。
つまり、ツイッターに書いてあるものを、読むことは、自分が言いたいことかどうか、(自分が言いたいことならば、好き。) または、他人が言いたいことで、とりあえず、読むしかない、そして読みながら、反応する (化学反応する) しかないか、(他者に制御されている状態。) なんです。
そして、ツイートを、読み終わった時に、つまり、ボウエンのいう、応答によって、ただ、ツイートに反応するだけではなく、他人の立場が考慮されつつ、自分の言いたいことを伝えることが、応答することが、大事なんですね。
1958 年に 導入された、ウィンの、pseudomutuality (シュードミューチュアリティー) についての考察ですが、人間には、分離と、親密さという、2 つの欲求があります。
分離というのは、自分という感覚を発展させたいと願うことで、親密さというのは、他者と関係を持ってゆきたいと願うことです。
分離と親密さが、保たれた状態というのは、いわば、健康な生活の中で、他者と親密になりながら、しかも自分というものを失ったり人に呑み込まれたりしないで、自己についての感じ方を養い、しかも、自分にとって意味のある他者へと自分を関係づけていきたいという親密さによって、表わされます。
私が、学生時代に、よくやっていたのは、精神分析から、家族療法への訣別でした。精神分析の投影を受ける人物としての受身の立場から、能動的な、いわば家族療法の教師としての治療者の立場を目指すのです。また、ボウエンの自己の分化の尺度を用いて、人々との未分化や融合、集中的癒着の状態から、人々を互いに引き離しておく失われた境界を、取り戻すことを、練習していました。
ツイートの吸引力に捉われて反応するだけで、終わらずに、しかるべき応答を返す力を身につけるのも大事だけれど、自分の感じ方を、自分の感じ方の変化を通して、あらゆるものを見つけるのも大事なので、茂木さんのツイートには、どうか、茂木さんとみなさんの成長を促すツイートを、よろしくお願いします。m(_ _)m