嫌いな人は、なぜ気になるのか
僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。
近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。
みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。
狭い視野の中で考えこんで、なかなかテーマを深められないことを反省しつつ、国と国などのことまでは想像できないけれど、嫌いだけれど気になって仕方がないという人について、前回投稿以降実感したこと、想像したことを書いてみます。
自分の子どもが本当に幼かった頃、初めての反抗的な(と私に感じられた)態度に接して、思いがけず激しい怒りを感じ、怒りを感じながらとてもうろたえたことがあります。それ以来、その体験を何度も振り返っては、あれはなんだったんだろう、と考えてきました。そして、今回、chigusaotsukiさんの、
人間には、分離と、親密さという、2 つの欲求があります。
分離と親密さが、保たれた状態
を読んで、幼い子供との分離ができていなかった、あまりにも近い存在だったのかな?と思いました。
親子関係は特別ではあるかと思いますが、同じように、気になる人は、分離と親密さのバランスがとりにくい人であるのかもしれません。
嫌いなのに、気になる人は、どこかに自分を引き付ける近しさ、他人ながら、どこかに自分ととても似ているところがあると感じられる反面、近いはずなのに、なぜかとても違う部分を持っている、自分にないものを持っている、と感じられる人であるように思います。近いものを持っているのに嫌いなのは、その近いはずの部分を、自分では意識していなかったり、わかっているけれど認めたくない部分なのかもしれません。そのため、その人と関わることで、自分が変わらされることを無意識に感じ取っているのかもしれません。人の心の中には、いつも変わりたいという思いと、変わりたくないという思いがあるように思います。そのせめぎ合いが、自分では変えられない部分を変えるかもしれないと思える人に対して、複雑な思いとして、嫌いだけれど気になる、あるいは攻撃として、表現されるのかもしれない、と思いました。そういう意味では、攻撃という形は、深い部分でかかわりたいという気持ちの、表れかもしれない、と思いました。
前回の投稿の「有名人に対して、自分のイメージを持って、憂さを晴らしている」、という部分は、乱暴で、短絡的だったと思いますので、撤回します。今回のものも含め、これまでの私の投稿で、不快な思いをされた方がいらっしゃいましたら、心からお詫びいたします。<(_ _)>
今回は、現実に会って話すのではない、投稿という場でいろいろなことを想像しながら表現すること、言葉を選ぶことの難しさ、負の感情を語ることの難しさを心から痛感しました。