嫌いな人は、なぜ気になるのか
僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。
近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。
みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。
私は、名もない田舎のハングリー坊主だけれども、私の発言に対しては、相手からの反発を招くことがよくあります。私は、小さい時は、人前で自分の意見を言えない、いわゆる内弁慶と呼ばれるタイプの人間だったのですが、それが嫌で、自分の気持ちを、正直に、他人を気にせずに発言できることを目指していろんなことに挑戦してきました。そして、今、私が自分の意見を正直に言えるようになったのは、青年海外協力隊を経験したことが転機になったように思います。一方、私は父に、どちらかというと理屈優先に躾られましたから、自分なりに、理屈にあった意見を、できるかぎり理由を述べて主張するように心がけています。そして、相手が、私の意見に納得するか、理由を付けて反論してくる時は、そのまま話が弾んで良いのですが、問題は、始めから、理由なく私自身に反発してくる場合です。この場合の相手は、ほぼ例外なく上から目線の相手です。そして、その人間の私に対する感想は、「ワシ(ワタシ)の言うことを聞かない」「すぐに、言い返す」というもので、話の内容には、ほとんど無関心という場合が多いようです。つまり、上から目線の人間というのは、「自分の立場を認めろ」という心情がいつでも心の中を支配しているように見えます。こちらとしては、相手の立場はどうでもよく、話の内容が是か非かということが重要なので、そういう具合に対処すると、相手は、私の存在が許せないらしく、折につけ、嫌がらせをしてくるようになります。この、上から目線の人間に対しては、ほとんど出来上がってしまった性格だと思うので、その態度を改めてもらうのは極めて難しく、対処の方法としては、なるべく関わらないか、あまりにしつこい場合には、「機転を利かせて、恨まれない程度に相手の面目を無くしてしまう」という方法くらいしかなさそうです。橋下大阪市長は、時々、上から目線の雑誌記者や評論家に対して、熱くなって議論されていますが、やらなければ貶められるし、だからといって、議論に勝っても、同情を集める訳でもない。日本の文化の中では、上から目線対策というものは、民主主義の成熟の為には、まだまだ研究しなければならない問題が、多々あると思います。思うに、この上から目線は、どうやら、学歴や、地位など、根拠の乏しい優越感から来ているようで、自己愛性人格障害の傾向が、多かれ少なかれあるように思えます。勿論、自己中心と強く関連しています。
優越感は、他人との関わりに於いて、何の実りももたらさないと思いますが、適度な劣等感は、人に追いつきたいという学習意欲を高めることがあります。しかしながら、私は、ここに、優越感も、劣等感も感じない目線というものを考えてみました。目線の高さを同じにするという意味で「等高目線」と名付けました。この等高目線は、年齢、性、地位や民族にかかわらず、自由自在です。
世界中の誰とでも同じ目の高さで、話が出来ると考えてみてください。当然話し言葉は、英語の友達言葉です。この等高目線が任意の二人の間で成立すると、心と心が繋がり、それを通して、お互いの思いやりや友情が自由に行き来することによって、人間関係にいろんな変化が生じます。まず、誰とでも友達になれる。恋人や夫婦は、相思相愛になる。国会は和やかな話し合いの場となり、国連は各国の友好を深める社交場となる。ついでに、鳥や獣や魚とも友達になって、みんなベジタリアンになる。夢のような話ですが、これが、お釈迦様の考えられた極楽浄土の姿だと思いませんか?
この世に極楽浄土を実現することは、もしかして、無理かもしれませんが、ある二人の間で、等高目線を成立させることは、必ずしも不可能ではないようにも思えます。そんな目で、今の人間関係を眺めてみると、不等高目線関係でいっぱいです。親子関係、男女関係、仕事関係、生徒と先生、坊さんの序列、その他、日本には、儒教によってもたらされた上下関係が山ほどあります。明治維新の富国強兵策でもたらされた、外国人に対する偏見もまだまだ、強く残っています。もしかしたら、今の、沖縄の米軍基地問題も、日本とアメリカの問題ではなくて、沖縄と本土の問題として捉えた方が解りやすいのかもしれません。日本人は、敗戦によって、進駐軍からタナボタ式の民主主義をもらってしまったが為に、それまでに作り上げてきた偏見の類いをそのまま温存することになってしまいました。グローバルな視点から見ると、女性や、子供の権利に対する人々の意識が、国際水準にはとても達していないという指摘は、制度や法律をいくら整備してみても、偏見に固まった意識はびくともしないということを物語っているのではないでしょうか。このことが、実は、英語の問題と共に国際化が進まない大きな原因になっているのだと思います。
そんな中で、今回、週刊朝日の「ハシシタ」ルーツ記事問題が起きています。私は、そんな記事は読みたくないし、正確な情報をつかんでいない立場でいうのは、説得力ないかもしれませんが、敢えていわせてもらえば、日本の部落差別問題は人々の意識の中では、威勢の良いかけ声にも関わらず、一歩も前進していないということです。役所でも、会社でも、地域でも、かけ声を強くすればする程、表面だけ取り繕って、問題は、水面下へどんどんと降りていってしまったということでしょう。イジメの問題や、自殺者が長年三万人を超える問題、少子高齢化の問題等、多くの社会問題で、政府が対策を講じれば講じる程、表面上は改善しても、状況はますます悪くなるという現象は、国民と政府の関係に、とても大きな乗り越えなければ成らない問題が存在する、ということを思わざるを得ません。言葉をかえて言うと、今の日本では、民主主義は、表面上の手続きであり、実質的には、全く機能していないということだと思います。
実は、この状況を打ち破る為に、橋下大阪市長は立ち上がられたと思うのですが、私個人としては、個々の意見の違いはあれ、方向としては、全く間違っていないと思います。それで、今回の、週刊朝日の問題ですが、これは、日本に頑固に横たわる偏見を一挙に洗い流す好機到来と考えても良いのではないでしょうか。アメリカでは、先に、黒人に対する偏見を乗り越えて、オバマ大統領が実現しました。私は、今回の大統領選挙でも彼が再選されることを心から願っている者の一人ですが、日本の部落問題などは、アメリカの黒人差別の問題に比べれば、比較にならない程乗り越えやすい問題だし、この際、同時に、外国人に対する、沖縄に対する、男女、子供に対する偏見の類いを一挙に乗り越えるエネルギーを発揮していただきたいと期待しています。
ただ、確かに大人の意識を変えるということは至難の業だということは想像できます。その為のアイデアは茂木さん達、知恵者にアドバイスをもらって、目標を定めて突っ走っていただきたいと思います。骨は拾う・・・じゃなくて、お子さん達の為に、決して命だけは落とさないでください。そんな時は代わりに私の命を上げてもいいです・・・と、言いたいのはやまやまですが、私の方は、大人の意識を変えるのは、とても大変だろうから、子供達に「等高目線」を持ってもらう活動をしていこうと思っています。
お互い頑張りましょう・・・僕の方が、楽しくて、ずっと楽だけど・・・