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嫌いな人は、なぜ気になるのか

僕はよくツイッターで絡まれます。一度も返事をしたことがないのに、ずっと僕のツイートを追いかけて、反論や難癖を送りつけてくる方がいる。以前は傷ついたりもしていましたが、最近は、「この人たちは僕のファンなんだ」と思っています。

僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。

近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。

みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。

NO.6   trasque 2012/10/22 00:13:16 合計 24pt.

個人的な好き嫌いの体験でも書いてみようかと思っておりましたが、皆様の投稿を拝読して色んな驚きを受けております。こんなに分析できるものなのか!?というのが正直な私の感想です。

No1大月さんの投稿ではそれがより具体性を持っていて、なんと表現すべきか…… アカデミックとでも言うのでしょうか。他人との関係を、割と個人の感情だけでやりくりしてきてしまった私には、整理した上での挑戦という能動的な行動はあまりなかったなと反省させられました。

またmasamiさんの一連の投稿の中にあるNo4の第三段落は私が「感覚」でやってきてしまった事を突いているなと感じました。「本気で嫌いだ」と思う人は私自身も人生の中で居た訳ではないのですが、どこか相手の発言や行動に対して「公平性を保てなくなる」という人物は確かに居ます。Twitterにしても、いざ他の人が同じ様な発言をしていたとしても気にならないのに、その人が言っている事はどうも「自分に言われているような気がする」というのが強くなってしまうのです。これを冷静に分析してみると、確かに大月さんやmasamiさんの言うような(茂木さんの本題にもありますが)「自分に近いところがある。自分が自分に痛感しているところがある」からこそなのだろうと思わされる訳です。

Tomoikukaiさんの第二段落「等高目線」について、私は実現可能だと思います。人類という規模で見たとき、これは途方もない時間がかかるかもしれませんが、その第一歩は誰でも、そして今からでも始められるものだと考えます。
そうは言っても「等高目線」を意識しすぎることは、どこか無理をしている状態ではないのか、という意見が出てくるかもしれないなと思いました。Tomoikukaiさんは「不等高目線」の例として、いくつか挙げられていますが、根本的なところではそれらの関係があった上でさえ等高目線は実現可能だと思います。
そして、その等高目線という関係が実現できている間柄の中にあって、存在が許される感情は「尊敬」の念ではないかと思います。非常に私としてはおこがましい話をしますが、茂木さんとお話をさせていただく機会があったとする時、仮に等高目線であったとしても、私の中には様々な理由で「尊敬する相手」としての態度を取ろうという感情が生まれると思います。これは一見「不等高」のように見えるかもしれませんが、お互いに一人の人間として真摯に対話が出来ている時には、等高目線として捉えても良いのではないかと思うのです。

なんとも表現しにくい事なのですが、いわゆる制度的な面でいつも「平等を公平を」と叫ぶようなものとは違うように思います。どんな相手であろうと一人の人間として対話する、という精神の芯のようなものがお互いに存在する状態が「等高目線」としても良いのではないかと思いますが、どうでしょうか。


ここの所、正直な話、昔からの友人の発言にどうしても「気になって」しまう相手がいます。自分の事を遠まわしに揶揄しているのではないか?と疑念が沸いてしまうのです。1ヶ月ほどは、見ないようにしようとか、小手先の対策をしていたのですが、何かが違うなと思いなおし、自分から対話をしにいくよう改めて行動を変えてみました。すると単なる勘違いだったり、揶揄ではないが意図していた事などが解って更に深い話ができたりという状態が生まれました。
「嫌いな人」という議論とは少しズレがあるかもしれませんが、これに対する一つの答えは「自分から行動を起こす」という一点があると思います。職場に居る「話しかけづらい人」「何かすれば攻撃してくる人」というのは、どうしても関わりたくなくなってしまうものです。そこにどういうアプローチを仕掛けていけるか。という毎日の挑戦を実際に行えるかどうかは、とても大きな課題になります。しかし、必ずそれらは乗り越えられるものだと私は思います。結果として、思いも寄らぬ事にはなるかもしれませんが、ただ放置し続けるよりは、いつも何かその関係性を変えていこうと動ける側の方が、最終的に「一歩前」に行けるのかなと思う訳です。