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嫌いな人は、なぜ気になるのか

僕はよくツイッターで絡まれます。一度も返事をしたことがないのに、ずっと僕のツイートを追いかけて、反論や難癖を送りつけてくる方がいる。以前は傷ついたりもしていましたが、最近は、「この人たちは僕のファンなんだ」と思っています。

僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。

近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。

みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。

NO.7   Tomoikukai 2012/10/22 10:54:13 合計 18pt.

No.6 trasque さんへ

極楽浄土は、「仏仏想念」という、仏と仏が拝み合う世界だとされています。これを人間の世界に翻訳すると、人と人がお互いに敬意を持ち合いながら友情を深めるということになると思います。私のいう「等高目線」は、お互いを煩悩も含めて自分と同じ人格者であるということをふまえないと成立しません。だから、二人の間で、一方の方だけが他方に尊敬の念を持つということは、明らかに「不等高目線」ということになります。特に、儒教によって規定された義務としての尊敬は、我々の乗り越えなければならない偏見の類いになると思います。人が、人に尊敬の情を感じる時は、その人が優れていると感じるからではなくて、その人が私にしてくれた好意(欲しいものをくれたり、知らないことを教えてくれたり、自分の足りないところを指摘してくれる等、親身になって関わってくれること)に対してであり、その好意は、出来ることがあれば、私が立場を変えて、その人にして上げられることでもあります。つまり、敬意というものは、社会的に、目上の人に対して社会常識として態度で表さなければならないものではなくて、相手の思いやりに対して、自然にわき上がってくるもののはずです。親鸞も、歎異抄の中で、

親鸞は、弟子一人ももたずそうろう。・・・(略)・・・自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

お釈迦様は、信心の人を、わが親友だとおっしゃった

と述べているように、「等高目線」に立って初めて、本物の「敬意」が生まれてくるのではないでしょうか。