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嫌いな人は、なぜ気になるのか

僕はよくツイッターで絡まれます。一度も返事をしたことがないのに、ずっと僕のツイートを追いかけて、反論や難癖を送りつけてくる方がいる。以前は傷ついたりもしていましたが、最近は、「この人たちは僕のファンなんだ」と思っています。

僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。

近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。

みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。

NO.11   orcamie 2012/10/25 13:16:09 合計 19pt.

私は人を嫌いになりたくないなという気持ちが漠然とあります。というのは嫌いの向こう側にある憎しみという感情に捕われたくないという思いがあります。私には理由はわかりませんが、強い負の感情、つまり誰かを憎むという感情に捕われてしまうと、自分がそこに取り込まれてにっちもさっちもいかなくなるのではないかという恐れがあります。

ところが逆にとても嬉しいことがあって、例えばだれかを愛してその人のためにがんばろうなどと正の方向の強い気持ちは、生きる上で自分にもプラスに働くと思うのです。また幸福のあまり失敗してもその後のリカバリは、負の感情に溺れての失敗より、容易のような気がします。

だから誰かに嫌われたり、憎まれたりすると、だからといって自分もその相手を憎み、嫌いになりたくないと私は思ってしまいます。No.1のchigusaotsukiさんが言及した分離と親密のバランスという考え方でいくとそのバランスが困難になると防衛本能が働くのでしょうか。

また誰かに嫌われて、なぜその人は私のことが嫌いなのだろうと理由が理解できなかったりすると私の方もその人に対して嫌いの感情がむくむくと湧いてきてしまうのです。しかし嫌われる理由がわかっても、自分の理性が私の方ではそれを変えることはないから仕方ないと私は立ち去りたいのですが、立ち去ることができない場合が社会ではあります。その場合その人が私に対して嫌いである限り私も嫌いにならざるを得ず、その嫌いの感情の渦に飲み込まれずに生活するのはかなり疲れます。できたら喜びを感じて毎日生活した方が楽しく何をするのも疲れが少ないので 嫌いの感情を捨ててしまいたいと思うのですが、嫌いの気持ちを1度くっつけてしまうとそう簡単には剥がせなくなってしまいます。そんなわけで私は「嫌い」という感情をできたらあまり持ちたくないと思うあまり私は「嫌い」な人に出会ってしまったら用心しなかればとついつい相手の動向が逐一気になってしまいます。

Tomoikikaiさんの「等高目線」という言葉面白いですね。私が勝手におもったのですが、きっと「等高目線」は固定されたものではなくて「不等高目線」がバランスよく動けば「等高目線」になるんじゃないかな。。。ふと思いました。