嫌いな人は、なぜ気になるのか
僕はよくツイッターで絡まれます。一度も返事をしたことがないのに、ずっと僕のツイートを追いかけて、反論や難癖を送りつけてくる方がいる。以前は傷ついたりもしていましたが、最近は、「この人たちは僕のファンなんだ」と思っています。
僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。
近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。
みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。
僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。
近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。
みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。
No.11 orcamie さんの
きっと「等高目線」は固定されたものではなくて「不等高目線」がバランスよく動けば「等高目線」になるんじゃないかな。。。ふと思いました。
バランスよく動けば、というところ、書かれた意図の通りに受け止めるのは難しいな、と感じますが、最近思ってることを書いてみます。
人と人がきちんと向き合ったとき、その場で交わされる言葉は、ひとりひとりがそれぞれの考えを言い合って、お互いに相手の言葉を、言葉を通して理解し合うのではなく、それぞれが語る言葉は、その場のふたりが作り上げていくのではないか、と思います。
例えば、ひとりの人が、絶望的な気持ちで語り出しても、向き合うもう一人の人が、その語りのなかに、話している人は気づいていないけれど、確かにそこに希望があることを感じながら、一心に聞いていると、絶望的な気持ちで語っていた人が、自然に希望の言葉を語りだす、そんなことがあります。そのとき語られる言葉は、語っていた人と、聞いている人のふたりで作り上げられた言葉のように感じます。
それと同じように、不等高目線で語りかける人も、相手の影響を全く受けずに語り続けることは難しい。その場合、相手の人が、どんな人とも等高目線で向き合える可能性を信じていたら、いつの間にか、等高目線の語り合いになることもあるかもしれない、と思いました。