嫌いな人は、なぜ気になるのか
僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。
近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。
みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。
嫌いな人はなぜ気になるのか?
少し話しの趣旨からそれるかもしれませんが、今回のお題をいただいた日の出来事から…。
普段山奥に棲んでいるため、購入したくてもできない THE BIG ISSUE を、その日、主張先の大阪で購入しました。
地下道の入り口に販売員さんが立っていました。人通りの多いその場所へ、最近移ってきたのだと彼は言っていました。
そんな立ち話をしながら購入している時に、ふと感じた視線。それは、私が普段の仕事の中で感じる社会の視線と同質のものだと感じました。
普段の仕事は、知的障がいや発達障がいのある人たちの支援です。彼らと一緒に行動しているときに感じる視線。
自分たちの暮らしは、日本の社会は、一定の水準に達している。決して、弱い人たちを踏み台にして成り立っている訳ではない。社会的弱者と言われる人たちには、相応の支援を社会が責任をもってやっている。
そう信じ、現実から目を背けようとしている目の前に突きつけられた「あるはずのない現実」に、戸惑いや、嫌悪感や、怖さを感じ、どう「見れば」いいのか分からずに漂う視線。「不等高目線」…?!
見たくないもの、見てはいけないもの、見えてはいけないもの…それは、「あるはずのない現実」ではなく、それを見ようとしない、向き合おうとしない自分の中の「ずるさ」とか「自己嫌悪感」のようなものなのだと(この仕事を始めるまで、世の中のことを知るまでの自分を振り返っても)思います。
「障害者」は、人里から離れて、「不自由なく」暮らしているはず。
「ホームレス」は、どこかに集まってただなにもせず暮らしているはず。
そして、自分たちとは関係のない人たち…。
のはず・・・なのに…。
否応なく突きつけられる自分との関係性に、とまどうのです。
同じ社会に生きるもの同士つながっているのだと知り、お互いの幸福を考え、それぞれが自分の生をポジティブに生きていくことができるように、どう行動するか。
金子みすずがうたった「みんなちがって みんないい」の真の意味を理解すれば、誰もが、尊大になる必要も、卑下する必要もなく、「等高」に生きていけるのだと思います。
真実を知ることで、嫌いだろうが、好きだろうが、関係なく、みんな関係して(つながって)生きているのだと気づけるのではないかと考えています。