嫌いな人は、なぜ気になるのか
僕はよくツイッターで絡まれます。一度も返事をしたことがないのに、ずっと僕のツイートを追いかけて、反論や難癖を送りつけてくる方がいる。以前は傷ついたりもしていましたが、最近は、「この人たちは僕のファンなんだ」と思っています。
僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。
近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。
みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。
僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。
近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。
みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。
何回もすみません。最後にひとつ、最近出会った出来事を、書きたいと思います。
人がまばらな駅に向かう通りを、大柄の男性が足早に歩いてました。その人は、前から歩いてくる男性に、すっと近づいては、擦れ違う瞬間、相手の肩に自分の肩をドン、と結構な勢いでぶつけたのです。最初は、うっかりぶつかったのかと思ったのですが、気になって見ていると、明らかに、すっと自分で近づいていくのでした。ぶつかられた人は、あっけにとられたり、文句を言いたそうに振り返ったりしていました。その男性は、3、4人の人と、ドスン、とぶつかることを、繰り返しました。
わたしはその光景を眺めていて、あの人は、ぶつかるということで、人とかかわっているのかもしれない、とぼんやりと感じました。
そして、皆さんの投稿を読んでいるうちに、この男性がやっていたことは、web上で執拗に絡むのと、似ているのかもしれない、と思いました。
でも、決定的に違うのは、身体性があるかないかという点かな、と思います。
人に肩をぶつければ、自分の肩も痛みますから。
そこに体の重みや痛みがあるかないか、は、どのように関わるか、どのように語り合うかに、大きく影響を与えるような気がします。
今回いろいろと考えている中で、実際に出会って言葉を交わすコミュニケーションについて考えられることを、web上だけのコミュニケーションにそのまま当てはめることには、慎重でありたいな、と思いました。
もちろん、体重の乗った言葉、という表現があるように、十分その人の存在の重みを感じられる、言葉だけ、web上だけの会話もあると思います。