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嫌いな人は、なぜ気になるのか

僕はよくツイッターで絡まれます。一度も返事をしたことがないのに、ずっと僕のツイートを追いかけて、反論や難癖を送りつけてくる方がいる。以前は傷ついたりもしていましたが、最近は、「この人たちは僕のファンなんだ」と思っています。

僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。

近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。

みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。

NO.18   masami 2012/11/04 22:50:29 合計 0pt.

テーマとは大幅に外れますが、気になったので

決定的に違うのは、身体性があるかないかという点かな

実際に出会って言葉を交わすコミュニケーションについて考えられることを、web上だけのコミュニケーションにそのまま当てはめることには、慎重でありたいな、と思いました。

の補足をします。

身体性がないことで、乱暴な言葉を出しやすくなることもあるだろうということ

身体性がないことで、相手の様子を無意識のうちに感じ取って、言おうと思ったけれど言えなくなる、話題を変える、といったことができないこと

逆に、視覚情報がないことで、今朝の茂木さんの連続ツイートにもあったように、視覚情報に気をとられて、感じ取るのが難しかった言葉の核の部分での会話のやりとりが可能になることも

などが、思い当ります。

今、言葉だけのやり取りが多くなって、新しい言葉の世界が生まれつつあるように思います。