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日本をデザインするとしたら

日本が復活するために必要な要素の一つに、僕は「デザイン」があると考えています。

今回発表されたAppleの新しいタブレット「iPad mini」は、スペックが事前にすべて流出していました。でも実物を目の前に出されると、やはり驚きがあって、「どうしても欲しい」と思ってしまう。あるいは、自動車についてもエンジンの性能だけを見て、人は評価しているわけではありません。とくにポルシェのような高級車はデザインによって人々の心を揺り動かしている面がある。また、JR九州の列車を水戸岡鋭治さんがデザインをするようになって、乗客が増えたと聞いています。このように、プロダクトの面でも、改めて、今デザインの力を問われているんですね。

また、今年のノーベル経済学賞は、「安定配分の理論とマーケットデザインの実践に関する功績」ということでマーケットデザインの研究者が受賞しました。つまり経済活動や世の中の仕組み全般も、デザインの対象になります。ただ自由に競争させておけばいい、という時代から、洗練されたデザインが必要だという感覚にシフトしつつある。

みなさんは、もし日本をデザインするとしたら、もっとも重視すべきはどんな点だと思いますか。具体的なデザイン案を提示していただいても結構ですし、この人にデザインしてもらいたいといった案でも結構です。みなさんの考えを聞かせてください。

NO.7   Tomoikukai 2012/11/13 19:20:01 合計 17pt.

先日、赤崎小学校の複式学級、1、2年生三人が、先生と一緒に私のお寺を訪ねてきてくれました。私は、これから、小さな子供達と、英語でおつきあいしたいと思っていたので、心が躍りました。私は、高 史明 さんの亡くなったお子さん、岡 真史 君も六年生の時に読んだという、「くもの糸」の話と、阿弥陀様の説明をしましたが、三人とも目を輝かせて聞いてくれたのが印象的でした。それから三日後に、この子達から、お寺を訪ねた感想の手紙をもらいました。それを読んで、彼らの感受性の瑞々しさに、改めて、この年代の子供達の可能性を再確認することが出来ました。

私は、日本の将来を考えるとき、この子供達が、思う存分活躍できる環境を整えることを中心に、いろんなシステムの再構築を考えていきたいと思います。

今、世界がグローバル化している中で、子供達が、英語のコミュニュケーション能力を身につけることは切迫した課題として、論をまたないと思います。しかし、その能力を身につけるにしても、それとともに、発想の豊かさや、柔軟な思考を伴わない限り、結局は、個性や創造性を伸ばすことにはならないと思います。しかも、この個性や創造性を伸ばすことこそ、将来の日本にとっての死活問題になることは、この国際情勢の中では、容易に想像できることです。

それでは、何故、今の日本人は、個性や創造性を伸ばしきれていないのでしょうか? このことを突止めれば、社会や教育システムの変革の方向が見えてくるのではないでしょうか。

私は、社会が、形式化し、柔軟性を失った要因は、形骸化した儒教にその主な原因があると思います。儒教は、江戸時代までは、江戸幕府による寺請制度で人々の宗教観が体制維持的になったとはいえ、仏教や神道と共に日本人の精神生活を支えていました。儒教は家族制度や社会秩序の維持に、仏教は内的精神活動、主に利他的愛をはぐくむという具合でしょうか。これが明治期に入ると、人工的に作られた儒教を骨格とした国家神道が前面に躍り出て、神仏は分離され、仏教が支えた利他的精神活動は、利己的な軍国主義や資本主義に取って代わられるようになります。残念ながら、仏教教団でさえも、国家神道の擁護者となっていったのです。戦後に入ると、世界的に資本主義の流れはますます強くなりますが、本来、自由主義、実力主義を前提として発展してきた資本主義は、日本では儒教の枠をはめたままで進展してきました。それは、形として、年功序列や終身雇用制度となって残ってきました。今の日本では、これらの制度を中心に儒教に類する偏見や思い込み、決めつけが、社会の隅々まで浸透し、脳梗塞や動脈硬化を引き起こしているように見えます。それでは、どんなところでこの脳梗塞や動脈硬化が始まっているのか、いくつかの例を見てみましょう。

まず、年功序列や終身雇用では、少々の例外があるとはいえ、年齢や勤続年数によって、一人一人に立場の序列をつけることが当たり前に行われます。会社や組織が成長しているとき、経験が長い者程将来への見通す能力が大きいというのは容易に想像されることで、経験が長い者、即ち年長者のいうことを聞いていれば大抵の仕事はうまくいくというのは、高度成長時代の日本だったのでしょう。しかし、多くの職場で、コンピューターが導入され、経済のグローバル化によって日本の一人勝ちが許されなくなると、成長を求めて、新たな方向を模索するとき、英語もコンピューターも解らない年長者は、立場が上位にいるだけに、無用の長物どころか、成長を妨げる阻害因子になってしまいました。グローバル化の中で、現在の経済界は、一部の先進的経営者のいる会社を除いて、会社のマネージメントに関しては、昔の成功体験しか知らない経営者にとっては、羅針盤を持たずに太平洋の真ん中で嵐に遭っているようなものでしょう。以前は、こんなとき絶大な信頼がおかれていた救出舞台の官僚組織も、今では、グローバル化の波には全くついていけていないのが実情です。そして、それに輪をかけて、政治界の迷走ぶりは、それこそ今や、世界中から、もの笑いの種にまでなっているようです。そして、これを打開しようともがけばもがく程、政府や官僚は、状況をコントロールしようとして、法律やルール作りに奔走することとなり、応用の利かないマニュアルがどんどんできあがって、結果的に、各方面で身動きがとれない状態に陥ってしまっているのではないでしょうか。これこそが正に脳梗塞状態といえるものだと思います。

そして、人々の儒教と資本主義によって作り出された利己的本音と、利他をとり繕う建前の使い分けは、人々を疑心暗鬼に陥らせて、人と人が無償の(利他的)愛で繋がる機会を奪っているように見えます。だから、いま巷にあふれている「絆」という言葉は、どうしても、お金の繋がりや、利己的な繋がりのにおいがしてしまいます。いま、結婚する人が少なくなり、家族の崩壊が取りざたされています。幸せな家族である為の条件は、家族相互の利他的愛情であることは、時、所に関わらず万国共通の通念でしょう。ところが、今日の日本では、結婚というものに対する条件は、経済的な安定をまず考えるという傾向が、ますます強くなっているようです。そんな家族は、自分たちの親を見ていても作りたくないと思うし、例え結婚しても、そうやって作られる家族は、一見、愛情で結ばれているように見えても利己的な愛情であることが多く、子育ても利己的な愛情で行われることが多いように見受けられます。これらの親達は、偏差値社会の選抜制度に子供達を送り込み、何人かはモンスターペアレンツとなり、ついには大学卒業後の就職活動にまで関わり、子供達が夢や希望を持つことも自立することも困難にしています。もともと、偏差値選抜社会というものは、一人一人に順番をつけて、上下関係をしっかり作り上げる為の儒教的価値観によって進化してきたと思われますが、それが揺るぎないものとなった今日では、そのレールから外れたものを落ちこぼれとして扱い、レールに乗ったものは自立の出来ない高級奴隷の体たらくを呈しています。

はっきりいって、自分のことしか考えないお嬢ちゃんやお坊ちゃん達では、仕事はできないし、子育ては無理なのです。

儒教と資本主義によって作り上げられてしまった日本人の二重性、あるいは、一度獲得した地位や既得権を、建前の理屈を駆使して守ろうとする政治家や官僚や経営者達の、今では習性とまでなってしまった「肩書きや立場から、ものをいう態度」は、色んな場面で、事業の遂行を妨げ、改革を潰し、グローバル化の波から逃げ回っているように見えます。

例としてあげれば、先の、福島第一原子力発電所の事故の折、緊急に原子炉を冷やす電源が必要なとき、小型バッテリーが大量に現場近くまで行っていたにもかかわらず、放射線量が高いということで、運搬用のトラックの現場乗り入れが許可にならなかったということがあったそうですが、もし、バッテリーが搬送されることによって、メルトダウンが防がれていたとしたならば、いや結果的にメルトダウンは防げなかったとしても、少なくとも、命がけで大事故を防ぐ可能性に懸ける使命感はあったとしても、実際の行動は、マニュアルや規則の壁を越えられないということを示していないでしょうか。また、菅直人前首相が、東京工業大学を卒業しているという肩書きがあることによって、誰が見ても暴挙としか言いようの無い行動が、建前として、原子力防災の専門家という立場の行動だということになって、誰も止めることが出来なかったということは、個人の資質もさることながら、日本の政治システムには致命的な欠陥があるということが明らかになったということではないでしょうか。(アメリカの大統領だとしたら、核のボタンを自分勝手に押しかねないということに匹敵する。)

利己的本音と、利他をとり繕う建前を自分の都合に応じて使い分ける現在の日本文化によって、動脈効果を起こしている所は、ほとんどすべての組織で見られると思いますが、特に教育界においては、日本の将来に直接関わるだけに、深刻な問題です。しかし、ここで、ひとつひとつ例を挙げていくと、きりがないし、以前の投稿でも何度も問題にしたことなので、英語教育に関してだけもう一度問題点を指摘しておくと。

英語を話せない文部官僚が、英語の授業のマニュアルを作って、英語の話せない先生を使って英語を教えて、どうやったら生徒が英語を話せるようになるっていうの?

脳梗塞と動脈硬化のお話は、まだまだ尽きないけれど、あとは、皆さんのそれぞれの現場で確認していただいて、これからは、子供達にどういう世の中を用意したらいいのかを考えていこうと思います。

とにかく克服したいのは、日本文化に深く根ざしてしまった、利己的本音と、利他をとり繕う建前の使い分けによる二重性です。その中でも、利己的本音をなんとかしないと、日本の社会は社会としての機能を失います。おおかたの日本人は今、本音というと利己的なものと思ってしまっているようですが、かっては、利他的本音が当たり前でした。利己的というのは、動物の本性で、生存本能とも密接に結びついています。方や、利他的というのは、社会性を保つ人間が進化させてきた人間の本性と言ってもいいでしょう。宗教というものは、もともと、この人間性に関わる人間としてのあるべき姿を人々の心に植え付けてきたのでしょう。しかし、資本主義が進み、宗教が教える利他の教えと資本主義が許す利己的な考え方との間で矛盾が広がってくると、日本では、利他的なものは、儒教の教える形式としての利他を保って社会の維持を図ろうとしました。これが、本音は利己的になり、形としては利他を保つという日本人の二重性に繋がっていったと思われます。これは、日本人は本質的に利己的になってしまったということを意味します。そして、これは日本人には宗教がないという調査結果とも一致します。一部を除いて、僧侶にさえ宗教心がなくなっているように見えます。然し乍ら、表面だけ利他を保っても本質的に皆が利己的であれば、人間的な社会は保たれなくなります。これが今起きている家族や社会(政党も?)の崩壊現象なのではないでしょうか。

子供達の未来を考えるとき、彼らが生き生きと人間性豊かに、夢や希望を実現させる為には、われわれは、本気で利他的な環境を実現させることを考えなければならないと思います。然し乍ら、ここで大きく前に立ちはだかる問題は、いったん利己的になってしまった大人が、利他的になることは極めて困難なのではないかと思えることです。利他的な性質というものは、どうやら小さいうち、それも中学生になる頃までにおおかたは固まってしまうような気がしていますが、これは私の直感で、茂木さんなんかはここのところをもうちょっと脳科学の見地から解説してくださるのではないかと思いますがいかがでしょうか? 何れにせよ、利己的な人間が、利他的に変わるということは、体験上、経験がないので、極めて、困難だろうと思います。それでは、利他的環境を実現するのは諦めなければならないかというと、希望がないとはいえないと思います。それには、まず、自分自身が本音は利己的なのか利他的なのかを知ることから始めなければならないと思います。どうやって? 目の前で人が苦しんでいるとき、自分は助けるかどうか? 本気で、自分のパートナーや、友達が幸せになってほしいと思っているかどうか? その気持ちの強さの程度で、自分の利他的程度の強さが解ると思います。もし自分が完全に利己的だと悟ったら、社会における自分のプレゼンスをなるべく小さく保つ。つまり、出しゃばりは止めるように心がけるようにします。もし利他的と判明したら、今までの引っ込み思案をやめて、積極的に社会と関わるようにしてください。そして、子育て中の夫婦は、子供を利他的な環境で育てることを積極的に話し合って実現してください。夫婦だけで子育てするのではなく、大家族や、地域と一緒になって子育てすることを真剣に考えてみてほしいと思います。それから、何よりも大切なことは、日本社会そのものが、今生まれてくる子供達によって、その子供達を社会を挙げて育てることによって、日本は再生できると確信することだと思います。

今、衆議院解散が間近に迫って、定数削減がわずかながら決まるようですが、基本的に、自分ながらのまともな意見を持っていないような議員が何人当選しようと、形式的な民主主義の数合わせに使われるだけで、国民に取っては、唯々、迷惑な存在でしかありません。先ず、今回の選挙では、既得権を守りたいだけの利己的程度の強い議員は立候補してほしくないし、そんな人には絶対に投票しないでほしいと思います。今度だけは、政党のマニュフェストよりも、そんなものに縛られない候補者自身の本音を出来るだけ有権者に知らせてほしいと思います。次の国会からは、政党の論理よりも議員一人一人が、政策ごとに自分の意見を表明し、国の形を決められる国会審議となるように議員が選ばれるようにしないといけないと思います。それには、先ず、争点が予想される、TPP、教育改革、エネルギー政策、憲法改正問題にたいする議員一人一人の意見を、根拠を示しながら、新聞紙上で表明していただきたい。例えば、TPPに反対するというのなら、これからどうグローバル化を実現しようとするのか? 日本の産業構造をどう立て直していくのか? 農業の明るい未来をどう実現するのかといったことを具体的に論じてほしいと思います。党の方針と合わないというのなら、正々堂々と離党するのが筋だと思います。ただ、今のところまだまだ、国民に今の状況や、政治理念について意見を表明されても、皆がみんな、それを理解する力はついていないかもしれないので、せめて、党の方からは選挙区とは別に比例代表選挙には、党の威信を懸けて、高い志と能力を持った候補を集めてほしいと思います。選挙区で落選した候補が比例区で当選などというのは、今までどおりの既得権選挙のやり方そのもので、政治の改革、ひいては日本の改革は望めそうにもありません。 

日本をデザインするということで、本当は、真っ先に思い浮かぶのは、憲法のことでしょうが、このことを書くと、ますます長くなるので、この投稿では信教の自由についてだけ触れておきたいと思います。私は常々憲法に信教の自由があることによって、日本の宗教心は滅びたと感じています。元々、宗教心は自由ではありません、物心がついたとき、無宗教であれ、共産主義であれ、環境によって何らかの宗教的心情が子供の心に刷り込まれてしまっています。その後、育った時に身に付いた宗旨とは違った宗旨に改宗したとしても、祈る対象の神様や仏様が変わるだけで宗教的心情は決して変わるものではないと私は思っています。信心深い人は死ぬまで信心深いし、無神論者は、どれだけ説得しても無神論者だと思います。それでは、信教の自由条項は何かというと、結局、宗教とは何かを突き詰めたことのない、にわか民主主義者が、国家神道の復活を恐れるGHQに胡麻をすって入り込ませた条項なのだと思います。それによって、各宗教は公の場所から遠ざけられ、何よりも子供達に宗教を押し付けるのは良くないことだという考えが広がってしまいました。宗教というのは、まともな宗教であれば、どんな宗教であっても、その教えによって、利己的な心情を転換させて、利他的な愛の心を育むものだと思います。特に、中学生になるころまでに、このこころが育っていれば、大人になってから、社会の中で心豊かな社会を実現する為に、大きな役割を担えるようになるものだと思います。今、宗教の自由条項によって、戦後民主主義社会の中で育った子供には宗教心が育っていません。これも、世の中に利己的な大人が蔓延した大きな理由の一つだと思います。

というわけで、憲法であれ、法律であれ、勝手に線を引くようなデザインは、時には、社会を危機に追いやることがあるものだということを知らねばならないと思います。ここで足りないのは、正に、けんけんがくがくの議論や双方向のコミュニュケーションです。以前の投稿で、日本の裁判制度は、裁判官が判断する、シビルローであり、アメリカやイギリスの裁判制度は、コミュニケーション重視のコモンローだと書いたことがありますが、日本の規則は、学校の校則まで、決まったことを厳密に当てはめるシビルローの精神です。しかし、ドイツやフランスなど、市民がしっかりと個人主義的にほぼ完成された人格を有する国民は政治に翻弄されるということは少ないでしょうが(それでもドイツはナチスに翻弄された)、流されやすい日本人にとっては、これから各分野でコミュニケーションを増やすという意味で、裁判制度をコモンローへと転換する検討を始めてもいいのではないでしょうか。ついでに英語の第二公用語化の検討も進めたらどうでしょう。今、時々、アメリカドラマ LOW & ORDER を見ることがあるのですが、一番驚くのは、状況によっては、殺人犯も無罪になることがあるということ。そこには、実直に法律に従って人を裁き続ける日本の裁判制度と生身の人間の間を埋める何かがあるような気がします。

最後に、これも以前の投稿で、ベーシックインカムのことについて触れましたが、次代を担う世代を育てる為には、ベーシックインカムと学費の無料化(学歴社会を解消できるという前提ですが)はどうしても実現したいデザインの一つです。しかし、これを今すぐにやろうとしても、官僚その他の既得権益保持者の抵抗があって出来ないとおもいます。それでも、それほど遠くない将来に、日本経済のインパッセが予想できる今、その時のセーフネットとして、このベーシックインカム制度の研究をしておいたらどうでしょうか。いざその時になったら、超法規的に政策を実行に移せば良いのです。ちょうど戦後の配給制度のようなものです。

非常に長くなって申し訳ありません。ここまでおつきあいしてくださった方、本当にありがとうございます。なるだけ短く纏めようと思ったのですが、大変そうなのでこのままアップします。誤字脱字はご容赦ください。