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日本をデザインするとしたら

日本が復活するために必要な要素の一つに、僕は「デザイン」があると考えています。

今回発表されたAppleの新しいタブレット「iPad mini」は、スペックが事前にすべて流出していました。でも実物を目の前に出されると、やはり驚きがあって、「どうしても欲しい」と思ってしまう。あるいは、自動車についてもエンジンの性能だけを見て、人は評価しているわけではありません。とくにポルシェのような高級車はデザインによって人々の心を揺り動かしている面がある。また、JR九州の列車を水戸岡鋭治さんがデザインをするようになって、乗客が増えたと聞いています。このように、プロダクトの面でも、改めて、今デザインの力を問われているんですね。

また、今年のノーベル経済学賞は、「安定配分の理論とマーケットデザインの実践に関する功績」ということでマーケットデザインの研究者が受賞しました。つまり経済活動や世の中の仕組み全般も、デザインの対象になります。ただ自由に競争させておけばいい、という時代から、洗練されたデザインが必要だという感覚にシフトしつつある。

みなさんは、もし日本をデザインするとしたら、もっとも重視すべきはどんな点だと思いますか。具体的なデザイン案を提示していただいても結構ですし、この人にデザインしてもらいたいといった案でも結構です。みなさんの考えを聞かせてください。

NO.9   terustar 2012/11/19 14:37:18 合計 5pt.

ずいぶん久しぶりにメルマガを開いてみて、思い立って投稿してみます。
Tomoikukaiさんの投稿、「利己的本音と利他を取り繕う建前」の内容に考えさせられました。

私の職場で近頃、定年退職された方が「10年前ぐらいに退職した人が一番良かったなー」とつぶやいておられました。
この言葉がどういう思いで吐露されたのか、本人にしか分からないのですが、察するに「先輩が先輩らしく後輩の公私の
面倒を見て、後輩が先輩を慕う事ができた」最後の世代は10年前に終わったという感慨だと思います。

長く低迷する不景気で、企業は若手の採用を控え続け、また効率化の連続で人材育成という機会を殆ど削り取ってしまいました。私の職場はどちらかというと、現場で汗を掻く技術系で、先輩が後輩を厳しく育て、酒でも鍛える(笑)という文化(儒教的な徒弟関係)があったのですが、会社に余裕がなくなると、そのような古き良き伝統を継承しようという力よりも、自分の仕事だけをやるというような自己保身に力学が働くような気がします。

つまり、儒教的な徒弟関係による利他性や社縁は、ゆるい資本主義の中では育むことができても、会社の経営が熾烈な競争に晒され、目先の数値的な効率化、合理化の圧力がかかる状況下では、育っていかない。廃れる一方である。
そもそも利他的な人は、どのような環境でも利他的であり続けることができるのでしょうが、多くの弱い人は即時的に自分が生き残るための選択を迫られると(そのような環境圧力があると)、あまりにも利己な振る舞いを取ってしまうのではないでしょうか?

私が新入社員の頃、あご髭を生やした長老のような大先輩がいて、「おっちゃんは、自分が習ってきた事をおまえ達に教えるのが使命やと思っている」と言って、この熱意だけで定年までの仕事をされた尊敬すべき先輩がいました。このように、”生きざま”に拘る人が本当に減っていると思います。

私は、茂木さんを追っかけているうちに、本当にセレンディピティなのですが、ある一人の牧師と出会い、40歳の節目に信仰を持つ事になりました。信仰告白の中で「自分の人生を追い求める(問う)のではなくて、神さまに生きる意味を問われる人生を生きよう」と決意しました。
日々、生き方を問われる人生として、クリスチャンとしての人格により、世の中と向き合うための脚力を鍛えて生きたいと思っています。
私の場合は、他者性(利他性)を持って生きていくための軸を、出会ってしまったキリストの信仰に置いたわけですが、この時代に、ぶれない生き方をするには、どうすればいいのでしょうか? 何も私のように宗教に求める必要もないですが。。

最後の最後で「日本のデザイン」というテーマに戻ると、3.11大震災のような大事件があっても、形式的、建前的なシステムは簡単には変わらないし、この形式主義がある程度のオートマティックな社会機能を支えてくれている。
しかし、今問題なのは、何でもコンプライアンスなどと言って、あるフォーマットから逸脱することを許さない空気感があるからではないかと思うのです。何でもかんでも、批判の対象にされてしまう事が、自主裁量や責任を取ることに大きな抵抗となっている気がします。
個々人の人格形成の基軸を何に求めるかと、大事な価値観を指針に捉えて見失わないシステム(単なる機能の集合体ではない)の構築をどのようにしていくのか、この時代に生きる我々の正念場ですね。現状にただ疲れていてはいけないと思っています。