総選挙の争点には何をおくべきか
みなさんは、次の総選挙においては、何を「争点」とすべきだと思いますか。原発についての態度でしょうか。TPPを受け入れるかどうかでしょうか。憲法を改正すべきかどうかでしょうか。近隣諸国との付き合い方でしょうか。あるいは、経済的格差に対する考え方でしょうか。
もし、誰も思いついていないような意外な争点がありましたら、それを教えてくださっても結構です。さあ、議論しましょう。
私は「政党を支持する人々の強さ」を見ています。
その上で、政党が持つ「実際的な力量」を争点とします。
もう十年近く前になりますが、選挙権を持つ少し前から「権力者と庶民」という関係に対して、様々に語られたり報じられたりする内容に私は違和感を持っていました。
それは「何らかの明確な悪意を持つワルモノ VS 隷属させられている弱々しい国民」という対立構造に対するものです。今でも何か事件があると「こんなワルモノがいるに違いない!我々弱い立場が云々……」という叫びを聞くことがあります。
そのような事件が現代に無いとは言いません。
私の両親、祖父母の時代には明確な「支配」「弾圧」は確かに存在していたろうと思いますし、現代においても諸外国にはまさにこのような問題が発生しているところもあると思います。
ただ、政治を睨む時にこの現代日本において、果たしてその対立構造に囚われ過ぎていて良いものか?と違和感を持つのです。本当にそれが「戦うべき相手」なのだろうかと。
現に、立場を利用した着服や横領事件などを有名会社の幹部や政治家が起こすような例は確かにあります。政治の混乱と言われる中で、私達からは考えられないような情けない状態が繰り広げられる事も少なくありません。
ただそれは本当に「明確な悪意を持つワルモノの仕業」なのでしょうか。そんな奴を引っ張り出して、袋叩きにすれば解決するのでしょうか。私にはそれが現実的に思えないのです。
この現代日本では、たとえ情けない状態になっている人達であろうと、おそらくほとんど「悪人ではない」と思います。では何なのかと言えばそれは「実力不足」であったり「必要な強さを備えていない」ということではないかと思うのです。
「明確な強い悪意」ではなく、怠惰だとかの弱さがずるずる引きずられているとか、必死にやっているつもりだけど勉強が足りていないとか、あっちこっちの利害関係にこね回されて中途半端になってしまうとか、そういうことではないかと思います。
私は今日本で「権力者VS庶民」という構造は、すでにひとつの終わりを過ぎていると感じています。乱暴な言い方をすれば、現代は「愚か者VS誠実な者」という構造ではないでしょうか。
予防線を張るようですが、私自身をどちらに所属させるという訳ではありません。私を含め、全ての人も(まさに権力者も)常にどちらにも所属しうるという状態です。
「政治家は金のことばかり考えている」という単純な批判を目にするたび不思議になります。そんなステレオタイプなワルモノがいるだろうかと。頑張って頑張って策を弄するならば、その政治家の給料が上がるとでも言うのでしょうか。そのような明確な悪意に基づいたワルモノを、私達は探し出して攻撃したいのでしょうか。
例えば、うまく波風を起こさずに居て任期を全うすれば、あとは悠々自適に生活できる、といったような小賢しいのはいるかもしれません。そういった「人間的な弱さ」をして、相応しくない!と怒るのならば分かります。
政治家も人間です。完璧はありえません。お金が少なければ働けなくなります。もちろん、一層の使命感や精神力は備わっていて欲しいという願いはあります。だからこそ、政治家としてどうか!という厳しい視点は常に向けられなければなりません。
ならば、それは私達主権者も同じではないかと思うのです。
私達が愚かであれば、政治家も愚かになっていきます。
私達が厳しく使命感を持つのならば、政治家もそれに答えなければならなくなります。
「政治家なんてドレも一緒」
「自分ひとりが投票したところで変わらない」
「日本の政治なんてもう期待してない」
「あそこは何となく嫌いだから」
「キミあそこ応援してるけどお金もらえるの?」
「そんな話してもウザがられるだろ?やめろよ」
「あいつクソだろ、テレビ見てればわかるじゃん」
全てとは言いません。
しかし、私の目に耳に確かに入ってくる「国民の声の一部」であることに間違いはありません。これほど主権者が無知でいることを率先して標榜するなど、これほど主権者が愚かであることを他人にまで求めるなど、これほど主権者が「見ないフリ」をし続けていることなど、あって良いのでしょうか。
私達は私達の愚かさにこそ、対決の意を向けねばならないのではないでしょうか。日常の場面において、なぜこんなにもただ政治を語ることに息苦しさを感じてしまうのでしょうか。私達は考えが偏っていたり無知であることを恥じる必要はないと思います。堂々とお互いに語り合って良いと思います。たとえ政治的な考えで対立したとしても、それが交友関係の決裂になることなどないものだと私は叫びたくなります。
私もそうですが、政治を学ぶ事はとても難しく感じると思います。ですから、身近な人とどんどん語るのが当たり前の社会になって欲しい。ちょっと主義主張が違ったり、知らなかったり、勘違いがあったりすると、すぐにそのまま人格否定のような見下すような物言いを飛ばしあう空気が、はやくなくなればいいとやるせなくなるのです。
「俺はA党のこんなところを支持するぜ」
「いや待て、実はA党はこんな失態があるがどう思う?」
「それは知らなかった!今日の所は勉強の為に退散だ!また挑んでやるぜ」
「いつでもかかってこい!」
こんな気さくで楽しい政治の対話を、当たり前のようにできる社会になり、主権者が自ら学んで語っていこうとするならば、私達は「愚かな国民」に打ち勝てるのではないでしょうか。そんなすぐに実現できれば言うことはない、と突っ込まれてしまうかもしれません。
ですから、今私は恐れてもビビっても身近な人に少しでも政治の話をしていきたいと気合を入れています。たぶん、無知すぎてバカにされることもあると思います。
実際、これまでにも政治の話をしたことで離れてしまった友人も幾人かおりました。私の落ち度には違いありませんし、もっと受け入れやすい語り方を考えなければと反省もしました。ただ、やはり悲しくなります。なぜ、よりよくしようという対話で友人をなくさねばならないのかと、無力感に苛まれるのです。
だから今、この現代日本にあって「平凡な一人の主権者として」勇敢に身近な人々へと政治を語ろうとする強い支持者が、その政党にどれだけ居るのかを私は重視(争点と)します。
私自身の(浅はかかもしれない)経験から、その行動はとても勇気の要るものだと思うからです。そしてこの時代にあってそれらは、ちょっと会社で応援を要請されたからとか、ちょっと儲けがあるかもしれないとか、そういった打算よりも純粋な「この人・この政党を勝たせたい」という思いが勝っていることを、それほど「強い国民」に支持されていることを証明するものだと思うからです。
「私は○○党を支持する」
「私は△△議員を支持する」
このように応援する対象を持つ事で、何か自分が操られてしまうかのような錯覚を持ってしまうのでしょうか。もちろん応援するからには、その対象が不義を働けば、応援するからこそ厳しく糾弾すべきとは思います。
ただ、運動会の赤組白組を応援するように、サッカーで外国同士の試合のどちらを応援してみるというように、そのくらいのものだって良いと私は思います。そこから身近な人と語り合うことで、支持している人していない人の事を色々と知っていき、結果としてその個人が「より強い主権者」に近づく、そのきっかけが始まると思います。
戦うべきは「空想して作り上げた巨悪」ではなく、自分および私達の中に潜む「愚かさ」であり、それはとても地道なものだろうと思うのです。
掲示板の主題と離れている事は自覚しております。申し訳ありません。私はそのようにして選挙へ参加してきました。(まだ数回程度ですが)
今回の議題は、政策や方針など具体的なモノについてどれを重視するか、という事だと思います。
これについて2行目に記した「政党がもつ実際的な力量を争点」としたいのですが、長くなってしまいますので一旦書き込みさせて頂きます。いつもすみません。
この場をお借りしてしまいますが、Tomoikukai様へ。
前回の書き込みで幾つかお伺いを立てるような書き込みをしたまま反応せずに申し訳ありませんでした。また、ご返答頂いてありがとうございました。私が普段接する事のない、お寺という世界の方の知識見識をお話し下さり、本当に勉強させて頂いております。また、よろしくお願いいたします。