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希望を持つにはどうしたらいいか

10年前の2002年、村上龍さんは『希望の国のエクソダス』の中で、「この国にはなんでもある。だけど希望だけはない」と指摘しました。2012年になっても日本に希望はないようです。先日も、荻上チキさんによる『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか 絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想 』という本が出版されています。
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掲示板へのコメントでも述べましたが、今の日本人にとにかく必要なのは、「希望」だと思います。国民総幸福(Gross National Happiness)も大事だけど、国民総希望(Gross National Hope)こそがさらに大事なのだと思います。では、この国民総希望をどう増やしていけばいいのか。ぜひみなさんにご意見をうかがいたい。そもそも「希望とは何か」といった抽象的な議論から、「こういうことをすると日本人はもっと希望を持てるようになるのではないか」といった具体的で建設的な提案まで、いろいろな切り口でご意見をいただければ幸いです。たくさんの書き込み、お待ちしております。

NO.10   trasque 2012/12/11 02:55:52 合計 19pt.

希望はどこにあるのか。
私は「一歩進もうとする」その中にあると考えます。
その為に「自分のものさしを持つこと」が必要だと思うのです。


●生きる為の希望とは、あやふやなものではない

希望という言葉にはいくつかの意味があります。hopeだったり、wishだったり、wantだったり。私達がここで議論し探りたい希望とは何なのでしょうか。考えていくと、どれも当てはまるように感じます。

「私は、ナットー・スシを希望する」
と言えば、単に納豆巻を欲しがる姿です。
「私は生きる希望を見出せない」
と言えば、何か生きる為の筋のようなものを見つけられずに苦しむ姿に見えます。

私は、ここで議論されるものとしては、後者の方かと考えております。最も近い英単語はhopeになるのでしょうか。また別の表現があるのかもしれません。

しかし、そうして考えているとどうしてもどこかその希望というものがあやふやなもののように感じられて、これだと言えないような、雲を掴む話になってしまいます。
私はもっと、希望とは確固たるものだと思うのです。


●「希望を持てる才能」など存在するのか

なぜ、希望を持てる人と、希望を持てない人が出てくるのでしょうか。そうでなければ、国民総希望のような比較は表れません。希望とは、ある種の才能なのでしょうか? その人を取り囲む環境で、得られる得られないが決まってしまうのでしょうか?
もし本当に、希望が「結果として得られる資格のない人がいる」ものとするならば、これほど絶望的な話はないじゃないかと私は感じます。あまりに無慈悲だと、むなしい気持ちにさえなります。

ここで私は「違う!」と叫びたくなります。
「希望を持てる才能」「希望を持てる状況」といったものにNOと言いたいのです。どんな人であろうと、どんな状況であろうと、確かに人間は希望を持てるはずです。でなければ、絶望しかないからです。そうすると、何の為に生きるのかを問えなくなってしまいます。

言い換えれば、どんな自分であってもどんな状況であっても、最後の最後、根本の根本の部分で「俺は生に満足できる!」と思えることが、希望ではないかと思います。
人生において、何も起こらないことほど不自然な事はありません。何かが起こり続ける事こそが自然であり、生きていることですから、その中でさえ「大丈夫だ」と心から思えるかどうかが希望だと思うのです。
そしてそれは誰かが用意してくれるものではありません。


●何があろうと大丈夫だ、という精神を持つ為に
 <現実から理想>までの全てを受け止める

「希望とはもっと確固たるもの」
「どんな人間であれ持てるもの」
と私はここまで考えを述べました。

何が起ころうと大丈夫だと思える精神というものがどのようにして実現されるのかは、そう簡単な話ではないのかもしれません。言えることは……個人の差こそあれ、観念だけで済むものでもなければ、ただ突っ走るだけで済むものでもないという事です。

私はかねてより自らの病について述べる事がありました。あえて自ら申し上げますが、私はこの病の患者の中では希望を持っている方だと思っております。
一つの例として、同じ様な状況でも、希望に溢れる人と絶望に打ちひしがれる人とがいます。そういった場面はたくさんあると思います。
私とほぼ同じ様な状況にありながら、この先に迷いしか感じられずとてもじゃないが希望などと言うこともできないという人もいます。

なぜ、そのような差が出るのでしょうか。
私は不思議とこの病の状況にあって「それでも満足する生を、送っていける!」と思えます。また、思いたいとも同時に考えています。
No2でterurunさんが仰っているように、私は病状の一つをとってみても「こうなりたい!」といった「問題からの脱却」を熱望している所があります。
それはとても「現実的な問題」です。具体的であり、切実です。時に苦しく、何かを呪いたくもなるような切羽詰った問題に対し「俺はこうなりたい」という<希望=ここではwantに近いでしょうか>を持っている訳です。

私の理想の一つは「病の完治」です。
しかし、特定難病疾患という種類である以上、もしかしたら一生の付き合いになるのかもしれません。理想と現実がどうしても相容れないとも言えます。
ただ、現実的な問題でこのようにもがいているうちに、私の中には「病になっていなければ、こんなことすら考えなかったな」といったような体験が得られたことも間違いではありません。
そうこうするうち「病の完治」という理想も、もっと凄いものになっていけるのではないかと考えるようになりました。
病が例え完治せずとも、それでしか得られない体験を価値に変え、自分で手に入れられるようになったとするならば、それはより素晴らしい理想とも言えるのではないでしょうか。

私は人生に「この病が必要だった」とほぼ確信しています。もちろん、色んな哲学や先人の教え、周囲の手助け、日本の制度の状況などなど…… これらがあったからこそのものに違いはありません。
ただ間違いなく、このような現実的な問題にぶつかっていくという地道な生活の中に「自分にしかない体験」が存在していました。色んな自分や周囲の状況という<今>をすべてひっくるめて「そこから更に一歩先」へ行くにはどうするのか、という連続闘争に乗っているうちに、いつのまにかそれらが「価値」に変わっていったのです。


●「それはお前の状況が良いからだ」という迷い

もし私に近い状況の人が居て、その人が絶望している時、私の話を見ているうちに「それは自分と違って、お前のあの部分の状況が良いからだ」と比較することがあるかもしれません。
確かに私は同病患者の中では現実的に恵まれている方だなと考える事もあります。しかし、例えば乙武さんの活躍を見てさえ「彼の方が状況が良いから、あれだけ凄いのだ」などと言うことは私にはできません。

つまり、結局「比較など意味が無い」のです。
それをすることは巡り巡って上記で触れた「状況によって希望を手に入れられなくなる」と叫んでしまうようなものです。
誰かと比較をして、それに満たされなければ自分に希望がないとするならば、何も変われるはずがありません。
<今>そのものからどこか一歩!を進もうとするかどうかは、完全に本人の勇気に左右されます。自分にしかできないことです。そこに「誰か」との比較など意味があるのでしょうか。
進むための力として、励ましとして「誰か」を見たり、話をしたりといった事は有効だと思います。「自分の一歩を進めるため」のものだからです。
その一歩を進める為には「自分にはなんて状況が悪いんだ」と思う事もあります。それでも、やれるはずなのです。その最後の勇気を出すのは他ならぬ自分の心であり、それが最も難しく、それでいて最も簡単な事だからです。

有り体に言ってしまえば、赤い色を思い浮かべるとか、次に青い色を思い浮かべるとかいう程度の自由さで、勇気を出そうとすることはできます。でも、それを本当に行動に移すかどうかはとても難しい、という事です。他人の状況など、関係ないのです。


●「一歩進むために必要な事」をリアルに捉える

そうは言ってもこのままだと単なる熱血精神論です。
一歩を進めるためには必要な事がたくさんあります。
私にはお金が必要ですし、そのために仕事もします。
難病への救済制度がなければ経済的に立ち行きません。
これらを相談できる身近な人もいます。
親族も理解があり、みな仲良くやっています。
友人にも恵まれています。
そういった状況から「更に一歩」を進めるかどうかが大事なのです。常に、どこまでいっても「更に一歩」です。お金を増やすのか。仕事を変えるのか。難病の制度に意見を出すのか。相談する人を見つけるのか。親族ともっと語り合うのか。友人に手助けを求めるのか。どの部分を進めるか、どのように進めるのかは、その時になってみなければ分かりませんが、進める為には「今の自分」をリアルに細かく捉えていなければなりません。
生活のためにはいくら必要なのか、といった論理的な考え方ができないからです。


●そして「どうしたらいいの」に立ち向かう

現実を把握して気合を入れたはいいけれど、じゃあどこに向かっていけばいいのかに迷ってしまう、ということがあると思います。旅には地図が必要なように、物事にはすべて「基準」が必要です。
私達が陥りやすい過ちとして「自分を基準にしてしまう」という事があります。基準とはものさしのようなものです。ものさしにはまず間違いのない目盛が入っています。この目盛がいつも1ミリと1センチの目盛だからこそ、私達はこのものさしを疑うことなく使い、指針にするのです。
地図には地図のルールが守られていますし、温度計も気分で変わったりしません。基準とは「変わらないもの」ですから、常に変化してしまう自分の心を基準にしてしまうのは、危険なのです。

自分の心と基準を常に照らし合わせる。
これができるから「次の一歩」がわかるのです。
その基準とは「次の一歩」の為に必要な知識かもしれないし、また別のものであるかもしれません。

そして最も根本的な「生きる為の基準」は確かに存在するはずです。それが哲学であったり、古典から得られる普遍性であったり、人によっては信仰であったり、するのだと思います。
それでもそのような「生きる為の基準」が、もし間違っていたら大変なことです。20度と間違って表示されている熱湯に手を入れてしまえば大やけどをします。だから、照らし合わせて「一歩」を踏み出していく中で行動をし結果を出して証明を繰り返していく他ありません。
そのような体験を語ったり聞いたりすることが必要ですから、人間は絶対に「一人になってはいけない」のだと思います。


●希望が無いように見えるのは「希望を知らない」から

No2でterurunさんが仰いました。
「日本はまだその苦しみにまで到達していないから、希望を得ようとしないのではないか」(要約してすみません

私は少し、それは違うと思います。
確かに「苦しみがある → 希望を求める」は成り立ちます。
しかし「希望を求める → 苦しみがある」は必ずしも成り立ちません。

どれほど順調のような人物でも悩みがあります。
「更に一歩」に終わりはありません。
人生が輝いているような人でさえ、希望を持とうとします。むしろ、そうした人は希望で満ち溢れています。
いつだって「更に一歩」を踏み出せると確信していて、それをちゃんと実現できると思える。これこそ希望ではないでしょうか。
例えば金銭的に順風満帆な人が、もう何も「進まなくて良いや」と考えていた時、たとえ生活が豪華であっても、その心根そのものが一つの苦しみに成り得ると思います。(本人にはその時自覚がないかもしれませんが)

先の私の話で「同じ状況で希望を持つ人と絶望する人」がいるとしました。それは苦しみの差なのでしょうか?同じ状況なのに、苦しみに差が出ることはあるのかもしれません。しかし希望を持つかどうかの差は、「一歩を踏み出す」ことと「基準と向きあえる」こととで得られるもの、を知らないからではないでしょうか?


絶対にどこか進められる一歩があるはずなのに、それに気づけず諦めたままとなってしまう。
進みたいのにそれを判断するための地図も磁石もなく、ただただ暗中模索となり恐怖してしまう。


希望を持てない日本があるとするなら、彼等は「知らない」からだと私は考えます。哲学を知らない。普遍性を知らない。信仰とは何かを知らない。 ……考えようとしない。

No8でのterurunさんが仰るように、身近な問題を解決していくという、「現実を改善していく」ことが希望だという点で同意します。
その為に必要な基準を持たねばなりませんし、それらは結局ひとりひとりの「一歩前進」の集合に他ならないからです。


●現実を一歩進められるとの確信が希望につながるのなら
 希望の下地にはキレイなものも汚いものもある

No3 ryosuke85さんが「許容」と仰っていました。
「絶対に一歩を進められる」という希望を実践する為には、今という自分を取り巻く状態を把握し、それを基準と照らし合わせる必要があると述べました。
そうすると、どうしてもきらびやかなものだけではなくなっていきます。terurunさんが「希望というと美しい言葉であるが……」と仰るように、とてもリアルな話になっていくのだと思います。
しかし、人間はどういうものかという基準を知らなければ、人間なら必ず備わっているはずの、一見悪い部分を許せなくなってしまいます。一旦は恐怖を認めよう、ただし打ち克とう!という風になれないのです。希望がありませんね。
様々な「一歩」を試して経験を積んでいくうちに許容できるようになるというのは、その人がある種の基準を手に入れた証明になります。それは希望の下地に、人間の美しい部分も、醜い部分も、一度は直視しなければできないものだからです。


●一人にならない為に

「絶対に一歩を進められる」という希望を実践する為に、様々な基準と照らし合わせる中で、それが本当に間違っていないのか不安になることがあります。
また、自分の知らない基準とどのようにして出会うのかという問題もあります。いま、日本に住む人達の多くはどこか孤独ではないかと思うのです。
tomoikukaiさんのエピソードのように、お寺にご家族で相談に来られるなどの例も含めて、それぞれがふたまわりくらい大きなコミュニティを持っているかどうかというのはとても重要な要素だと感じます。
家族もいない、家族しかいない、限られた友人しかいない、というのはまだまだ孤独ではないかと思うのです。
「生きる為に必要な精神」という基準を同一に持つ、同志のようなものの存在がたくさんいるという状況は強いと思います。私は、そういった面で信仰には役割があるのだと感じる事があります。非常にわかりやすい「基準と自分を照らし合わせる行為」だと思うからです。
だからこそ間違った宗教は本当に怖いものになってしまいます。現実の中にある事を絶対に忘れてはなりません。私達人間の為に宗教があるのであって、それが逆転していてはおかしいのです。
ある基準に沿った実践は結果として残ります。だから「全ての苦悩はある種の価値に成り得る」のです。私が病に対して、ある基準で行動を起こした結果が良ければ、それはまた誰かの勇気になるかもしれません。その体験や結果を、語っていこうとさえ思います。もし結果的に、病の完治等の理想が叶わないにしても、私が「常に一歩前進できると希望を持ち続けた」という姿を実現できるなら、それはまた誰かに引き継がれていくものだと思います。

tomoikukaiさんはお寺に来られた方々に様々なお話をされていることと思います。宗教的な教義や宗派的なことは私にはわかりませんが、「実践する宗教者」が語る話についてはとても現実的なもので、ただ観念を振り回すものではないと考えます。
ですから、tomoikukaiさんが語り、それを同じコミュニティの中で聴いた方が広げているであろう流れは、様々な人の勇気になっていることと思うのです。それが「いざ一歩」につながり、結果として希望となるのではないでしょうか。

地域社会や、宗教というものの本来の役割は、こういったところにあると思います。もっと「一人にならない社会」に近づくために、まず私は色々な方法で(ボランティアですとか)地域に入っていきたいと思いますし、微力ですがちょっとずつ実践しています。


●死の問題

長くなりました。
私はこれまで長々と「どんな人間でも希望は持ち得る」ことを伝えんと述べてきました。人間は平等ではありません。常に理不尽でさえあります。それでも、生命の働きは同じ…… というより、どんな人でもあらゆる人間の要素をちゃんと備えています。
死という誰にでも訪れる最後の課題は、そう簡単に解決できるものではありません。若輩の私が述べるにはあまりにも大きな問題だと感じます。
最後の瞬間にやってくる壮大な空しさを連想させる死を前にして、私達は何に希望を持とうと言うのでしょうか。
結局何をしても平等に訪れるものであるのなら、いっそ希望など苦しんででも手に入れるようなものではないのかもしれません。

私の好きな漫画作品に「ジョジョの奇妙な冒険」というものがあります。(まさに今アニメ化してますねッ!!)
その第五部にとある若いギャングのキャラクターが登場します。彼は以前、純粋な正義感から警官をしていましたが、次第に様々な世の汚さに絶望してしまったのです。
その中で殉職してしまった相棒の警官が夢に現れ、せっせと無謀な証拠集めをしている姿が映る場面があります。その夢の中で、相棒の警官に彼が質問をします。そんな報われそうもないようなことをしてまで、どうして苦労をしょっているんだ?と。

ここから引用します

「そうだな… わたしは結果だけを求めてはいない。
 結果だけを求めていると人は近道をしたがるものだ…
 近道した時、真実を見失うかもしれない。
 やる気もしだいに失せていく」

「大切なのは<真実に向かおうとする意思>だと思っている。
 向かおうとする意思さえあれば、たとえ今回は
 犯人が逃げたとしてもいつかはたどり着くだろう?
 向かっているわけだからな。違うかい?」

私はこの作品のこの場面を、当時ジャンプで連載していた時に読んで以来、強烈な印象を受けてずっと覚えていました。
この後、この元警官のギャングはこの相棒の警官を、自分の保身の為に殉職させてしまった事を思い出します。この夢は、ギャングの彼がまさに死に瀕している時に見たものでした。
しかし彼は死に際、仲間のギャングに大事なものを確かに残す大きな仕事を成し遂げていたのです。

「おまえはりっぱにやったのだ。
 そして、おまえの真実に<向かおうとする意思>は
 あとの者たちが感じ取ってくれているさ。
 大切なのは… そこなんだからな…」


死が例えとても空しいものであったにせよ、それまでに「進み続けた一歩」は残ります。そうして得られた価値は、誰かの希望として残るかもしれません。どれほど壮絶な死であろうと、それまでの歩みに価値があるのなら、それは幸せであると言っても良いのかなと思います。
いまだ私は死を恐れることがあります。それでも、そのようにして「死さえも価値に変えられる」のかもしれないのなら、今からその時が楽しみだな、とさえ考える事があります。
恐らくこれも、進み続ける意思さえ忘れなければ、誰であろうと実現できるもののはずです。


●希望を増やしていくために

日本に希望が足りないのだとするなら……
私は以上から「まず私が私の一歩を踏み出し」ます。
その為の基準を得るために「学ぼうとする事をやめません」。
そしてそれを「常に実践しようとし」ます。
得られた体験を「様々な人と語り合う」機会を作ります。

どこまで出来るかはわかりません。

この掲示板も含め、今回の総選挙の件もそうですが、日本では語ることを恐れる人達が多いのではないかと思います。語る人の人格を必要以上に攻撃してしまう人達が多いのではないかと思います。
それはryosuke85さんが仰る「許容」ができないからだと思います。許容する為には、どんな人間にもあらゆる人間の要素が備わる事を示さねばなりません。それは悩みや苦しみを克服しようとする行動と結果から証明されます。
ですので、terurunさんの仰るように「更に苦しむ事」も個人としては必要だと感じています。
「テキトー」になってしまう世の中に、もっと真剣味を持たせるためには死の問題へ積極的に挑めるようにすることだと思います。masamiさんが仰るように、つきつめれば「希望の為に」死の問題も必要なのです。

語ろうとする人、人の中に飛び込もうとする人が増える事が、日本の総希望を増やす、地道ではありますが、ひとつの方法だと思います。

長くなってスミマセン……