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2012年はどんな年でしたか、2013年はどんな年にしたいですか

通常号については、今号が「2012年最後の号」ですね。この掲示板でもみなさんには様々なテーマについて議論していただきましたが、みなさんにとって2012年はどのような年でしたでしょうか。また、それを踏まえて2013年はどのような年にしたいとお考えですか。

ちなみにぼくの2012年三大ニュースは、

(1)Long BeachのTEDで、日本人として初めてスピーチをする。釜石の漁師さんからお預かりした大漁旗を振って、震災に負けない日本人のスピリットを訴えた。
(2)日本の現状を憂う気持ちには変わらないが、日本を変えるよりも、まずは自分を変えよう、と思うようになった。アスリートとしての思いが強くなった。
(3)地上波テレビで、初めて尾崎豊の『十五の夜』を歌ってしまった。フジテレビ「スナック喫茶エデン」。冷や汗。

でした。

個人的な話でも、日本や世界についての話でも結構です。書き込み、お待ちしております。

NO.16   Tomoikukai 2012/12/25 15:50:26 合計 14pt.

今年は、内にも外にも形骸化した儒教との戦いでもありました。

私は、30年程前に敦賀市の片田舎にある光照寺という小さなお寺を継ぎました。そこでは、一周忌とか三回忌の法事になると、親戚を読んで、お経を上げ、お話しが済むと、よく、会食の席が設けられます。そんな時、私は、新米の坊さんにもかかわらず、一番上座に誘導されます。私は始めは、固辞していたのですが、いつまでも抵抗すると埒が開かないので、気まずい思いで定位置に座らざるを得ませんでした。そして、それが何度も続くと、今度は、当然とはいわないまでも、なりゆきで、いつも上座に座るということにあまり抵抗を感じなくなりました。そして、先日、そこの施主が、上下をあまり気にしない人で、私が、中程の席にすわると、そのまま、宴席が始まりました。その時私の心の中は、少し「むっ」とした気分が持ち上がりました。今の日本には、儒教の教えによって常識化した上下関係があらゆる所で固定化されています。そして、少しでも、上と目される位置付けに快さを覚え、下に見られることに不快を感じてしまいます。法事の会食では、上座、下座で、料理には全く違いがないにも関わらずです。これは、昔は、坊さんと一般の人とでは、教養に大きな開きがあり、上座から、人生の問題に対して色々な教説がなされたことがあった為だろうと思います。しかし、私の見る所では、今や、一般の人と坊さんの教養の差は全く見られないと言ってもよく、時には逆転していることもあります。それにも関わらず、上座に座るということは、坊さん達は、形だけの敬意を示されているということです。これが、「本音」と「建前」の乖離現象とも呼べるものではないでしょうか。これが起こってしまうとお互いの会話は、全く上っ面の表面的なものだけになってしまいます。「おじょうず」と「賞賛」、いわゆる日本人が大切にする「和」は、今では、表面(オモテヅラ)だけ仲良くするということを意味しているようです。

昔は、建前は人間が歩む理想のあり方として、表明され、修行や勉学を通して自分自身を鍛え、本音で建前が実行できるように努力したということではないでしょうか。ところが、今では、勉学の目指すものは、学歴であり、資格・地位という、一度取ってしまえば、後はそれほど努力しないでも、上座に座り続けられるというシステムが出来上がってしまいました。そこに於ける「建前」とは、理想のあり方というよりは、むしろ、出来もしないきれいごととなって、演説や、挨拶の枕詞になってしまい、誰も本気になって取り組もうとしません。一方、「本音」の部分では、自分のポジションに従って、自分に与えられた仕事や命令を、マニュアル通りにこなすということをやり続けているように思います。そして、そこには本音で取り組まなければならない宗教や哲学の問題、つまり、人間の道を求めること、偏見との戦い、差別の解放への努力が、建前の中に逃避して、すっかり抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

たとえば、茂木さんの著書「生きて死ぬ私」の中での、お母さんとの確執は、正に、「本音」と「建前」の乖離現象なのではないかと思う訳です。つまり、茂木さんのお母さんは、儒教という「建前」の仏教を茂木さんに期待するし、茂木さんの方は、「本音」としての仏教に思い入れがある。だから、茂木さんは、お母さんの「建前」に妥協しつつも、「本音」では、母親の宗教観を受け入れることが出来ない。もしかしたら、機が熟せば、お母さんの宗教観を正したいと思っているかもしれない。ということなのかなと、
勝手に想像してしまいます。もし、茂木さん親子が、始めから、本音の所で親子関係が成り立っていれば、当然、口論や、誤解なども生まれるかもしれませんが、お互いの宗教観に良い意味で影響をし合えたのではないかと思えるのです。

生意気なことを書いてしまいましたが、私は、今の日本では、この「本音」と「建前」の乖離現象が、儒教の形骸化として、至る所で、人間関係を表面的なものにし、ある意味破壊さえしていると思っています。日本や韓国では、鬱病や自殺者が極端に多いという事実は、同じ、元儒教の国として、どちらもその形骸化、幽霊化に悩まされているのではないかと思います。

こんなことを書いたのは、茂木さんが、私当てのコメントに「Tomoikukaiさま」と「さま」をつけられたからです。わたしは、この「さま」を見て、非常に複雑な気持ちになりました。一つは、茂木さんに「さま」をつけてもらったという、金メダルでも戴いたような気持ち。そして、それに反して、茂木さんは、私の「等高目線」という発想を、本気では指示してくれていないんだという悔しい思いと、そして、一体、俺の「本音」はどっちの方にあるんだというなんやかんやで、投稿して自分の本当の気持ちを探ってみようと思ったのです。

そして、結論としては、私の中にも、多分、茂木さんの中にも「アブソーベントエイジ」に受けた、儒教の価値観がある程度体にしみ込んでしまっているだろうけど、何事にも、本気で取り組むことを考えれば、儒教的建前は、出来るだけ省いて、色んな人とコミュニケーションを成立させていくのがいいのではないかということなのです。

ということで、これからは、「Tomoikukaiさん」あるいは、「Tomoikukai」としてください。アメリカ人は、大抵の会合では、例え初対面でも紹介された後は、お互いに、ファーストネームで呼び合うそうで、是非日本にも取り入れたい慣行です。・・・ということで、sanaさん 「Tomoikukai」で OK!