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日本人が個人として自立するためにはどうすればいいのか?

「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざる
もの、之を独立自尊の人と云ふ」。これは福澤諭吉の言葉です。でも、明
治以来、日本人の「独立自尊」はまだ達成できているとは思えません。ど
うしたら日本人に「独立自尊」を根付かせることができるのか。言い換え
ると、「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか」。前回の「組
織と個人のあるべき関係とは?」から引き続いて、議論をしていきまし
ょう。

NO.26   trasque 2011/04/25 03:11:49 合計 0pt.

非常に長くなりました。テーマをずっと考えていたら、触れるべき部分が膨大でうまくまとめられませんでした。読みづらいと思いますが、書き込みをさせて頂きます。

この度はメールマガジンで書き込みを取り上げて頂き、ありがとうございました。
メールマガジンを読んだ時には、自分のハンドルネームを見て心臓が止まりそうでした。
若輩としては純粋に嬉しく、同時に様々な人たちへの感謝もせずにはいられませんでした。

ご迷惑になると思いつつ…… 長文のまま投稿させて頂きます。
最後にまとめてみましたので、ご容赦下さい。


(1)「自分」とはこれまでのあらゆる総合
前回書き込んだ内容は私の頭の中で考えたもので、特にどこからか引用したわけではありません。
しかし、その内容はこれまで様々な人から教えられたり、何かを読んだりしたものが僕の中で蓄積されていって、色々な体験を通じて固められていったものであります。ですから、場合によっては誰かが発した言葉をそのまま同じように綴っている部分があるかもしれませんし、時には結果として「丸パクり」に近くなるのかもしれません。
いずれにせよ「自分」とは「それまで生きてきて、聞き、見て、学び、話し、考え、動き等したものの総合」であるはずです。十人十色とは言いますが、それはお互いがお互いの色を常に取り出したり与えたりしながら混ざったり分離したりしているものだと思います。
ですから、この度取り上げて頂き「面白い指摘」と評価を頂いた事は、私自身への評価にとどまらず、それまで私を構成してくれた「色んな何か」に対しての評価でもあるのです。であれば、それらに対して感謝しても、私は良いと思います。結局、人生に無駄は無い、と言われる通りなのかもしれません。


(2)人生には基準が必要
ところで先日、友人と話をしていた時に「自分の外にある基準」の話題になりました。
この度のお題である「自立」に対して、一つのヒントになったな、と思ったのです。
それは「人生において 正しい尺度を持っている と断言できるか」どうかという点でした。
平たく言えば「自分が基準に沿って動いているか」即座に答えられるものがあるかどうか、です。

物事には「基準」が必要です。長さをはかるためには定規やメジャーを使います。重さはキログラム原器が必要です。温度には1気圧下の水の凝固沸騰という自然の尺度もあります。
安く質の悪いメジャーを使って長さに誤差があったのならば、それで家を建てようとすると後でとんでもない事故になってしまいます。だから基準は「正しくあるべき」で「動く事のない」ものである必要があります。
これは私達が生きていく人生にも必要なものであると考えます。人生の基準が必要なのです。


(3)「自分教」からの脱出が自立への第一歩
皆様が会話される中で「自分教」を標榜する方が、たまにいるかも知れません。──信じられるのは自分だけである。自分の心なのだからそれは裏切る事は無い。他者に傾倒して自分を失ってはならない── そう主張する人達です。
私はまず、この「自分教からの脱出が、自立への第一歩」だと考えます。
人間の心は瞬間瞬間、常に変化しています。身近な話なら「お腹すいた」と思った矢先に「仕事したくないな」とか、ぐるぐる回っているのが人間の心です。だからこそ柔軟であり、強くなれるものでもあるはずです。
また、何か外部からの刺激によっても「自分の意思とは別にして」心が動かされてしまう事は日常茶飯事となります。感動したり、驚いたり、そこから心だけではなく身体までも動かされてしまうのです。

これほどまでに「正しいとも悪いとも言えず」かつ「動かない事のない」ものを基準にしてしまおうというものが「自分教」の正体であると私は考えます。先に上げたように基準とは「正しく、動かないもの」ですから、全く逆の性質のものです。それを「人生の基準にしてしまった」時、家が壊れる以上の事故がやってくる未来が、見えるようではありませんか。

ですから私はまず「自分教を脱出」し、動かない(ブレない)基準を求め抜いていく生き方がまず必要だと考えます。究極的なパターンは「宗教を持つ人」や「哲学を持つ人」でしょうか。
こういった話をすると、多くの場合私は反発を受けます。それは自分を見失ってしまうだとか、自分で何も考えなくなるから危険だとか、です。
自分という自分にしか見えない心を「一旦信じない」という行為ですから、怖くなるのは当然だと私も思います。だから「求めぬく」必要があるのです。どんな本を読んだのか、それは人生の基準になる何かが書かれているのか、あの言葉は何を教えようとしているのか、本当にそれは間違っていないのか。結局、悩みぬいていかねばならないはずなのです。自分を動かす為の基準を探す行為は、疑念の連続、苦悩苦闘の連続であるはずです。行動も必要であり、実践が必要であり、だからこそ間違いを犯す事もあり、また改めて悩み考える。自分の心をどんどん動かしていく「生きた作業」です。


(4)基準に合わせる事は自分を失う事ではなく、自由になる事
もし「人生の基準」が手に入れられたのならばどうするか。定規を使うとき、まず長さを目測で正確にははかれませんから、対象物に定規をあてます。そして正確な数値を得てはじめて、自分の頭を回転させることになります。同じように、人生の基準を「生き様」に当てはめ、悩んで考えて動く。
「人生の基準」という軸を中心に「自分が周囲を回る」というイメージでしょうか。

これに皆さんはどう感じられるでしょうか?自分を失っているでしょうか。縛られたように感じるでしょうか。結局振り回されているだけに見えるでしょうか。
私は、基準を手に入れた人間の精神はとても「自由」だと感じます。一旦自分の感情を抑えたりする場面は必ずあると思いますが、それは基準から判断した理性であり、よりよい行動を選択した事になるからです。私はこの時点で、ある程度の自立は成立していると言っても良いのではないかと思います。


(5)正しい基準を求めぬく ──素直さ
しかし、基準が間違っている場合があります。質の悪いメジャーで家を建てても、何とか形にはなるかもしれませんが間違ったメジャーを使ってしまえば、もはや着工は不可能です。それでも気付かずに突進してしまうと、それこそ悲惨な結果になります。
「人生の基準」も同様であると私は考えます。その基準が間違っている時、その人生は破壊されてしまうと思うのです。だから「正しい基準を求めぬく姿勢」が必要です。

故松下幸之助さんは「素直な心」を主張されていました。様々な教えを、まずは素直に聞いてみる姿勢は思いの他重要であると考えます。受け入れた教えが実践できるのかどうか、その結果として人間的に成長できるのかどうか。恐らくこの挑戦は、自分の心と真正面に向き合う連続的な闘争になるでしょう。しかし、そこにこそ心も頭も体も含めた全人格的な前進があると思うのです。


(6)基準を求める意識を「教育」で作るには ──師匠を持つ
この度のテーマで皆様が語られている中に「教育」があります。私も非常に重要な項目だと考えます。ですからその教育が「間違っている訳にはいかない」と思うのです。
知識、学力、社会の立ち回り、それらは大事なものです。でも、教育で最も大事な部分は「人間として生きる力を磨き続ける心」をいかにして伝えていくかだと私は考えます。
クラスに生徒を集めて、科目ごとに講義を行う形態は、体系的教育、効率的教育としては非常に良い方法だと思います。しかし、それだけでは不足だと思うのです。
教育には「人格的交流」が必要だと考えます。メルマガに掲載されていた「ホラス・バーロー教授」は茂木さんがお世話になった方との事でしたが、こういった関係の中で磨かれるものがあると思います。

一言で済ませば「師匠を持つかどうか」です。

最近の芥川賞を受賞された西村賢太さんは、藤澤清造という作家を師匠として自らを弟子と称し活動するようになりました。しかし、この藤澤清造はその時点で既に亡くなられていました。
「師匠」とは自らが求めるものだと思います。自称だとしても、既に居なくとも、この人が師匠であり、絶対に裏切らないという心からの決意が、その人を大きく飛躍させると私は思います。

師匠を持つと言う事は「その人の言う事には絶対に逆らわない」という程の覚悟が必要です。現実的には無理だとしても、そのような気概を持てる人に出会えるかどうかは、とても人生において大きな影響をもたらすと思います。
これは(4)での「基準に自分を合わせていく」事と同じ意味があります。師匠という人生の基準に、自分を周回させていくからです。

「この人の為なら身を惜しまない」と思えるような人を求める。そういう人との関わりはとても人間的な交流であります。厳愛の中にも慈悲のあるような師匠との交流ほど、人間としての訓練として素晴らしいものはないと思うのです。
子供たちはどんな子であれ、あらゆる可能性を秘めていると思います。私達でさえ、時間をかければやってやれない事はないと奮起できるはずです。子供たちへの教育は、まず子供たちを「例外なく無限の可能性を持つ未来の宝」だと信じぬく事からはじまると思います。
生きるとはどういうことなのか。真剣に打ち込んでくれる誰かの事を、子供たちは絶対に覚えています。彼等が将来辛い目にあった時、その真剣であった大人の誰かとの思い出が、その子達を救う事さえあると思うのです。
障害を持っていたり、要領の悪い子であったりしても、彼等の未来は無限大だと思います。それを彼等に伝え、真剣さを見せていく事が子供たちへの「人間的教育」だと私は考えます。


(7)組織と個人の関係の中に
師匠と弟子の関係が出来やすい「組織」の一つとして大学があります。多くの場合は研究室の教授と学部生がその関係です。また、院生と学部生で同じような関係になる場合もあるでしょう。師匠とおおげさに言っていますが「スポーツの師匠」「芸術の師匠」などと、複数作っても良いと思います。
前回の「組織と個人」の話では多くが会社をベースとした議論だったと思います。そういった中ではどうしても「稼ぎ目的」だったり「営利勝負」だったりで中々師匠と弟子のような関係は難しくなると思うのです。
大学は「知」で勝負するところで、教育の最高学府です。であれば(6)の通りに、人格的教育の最高学府でもなければならないと私は考えます。
教授と学部生の双方向的な尊敬の関係。研究という共通の目的に進む中で生まれる交流という人間的教育。これをどれだけの教授、学生が意識していることでしょうか。
私の偏見が含まれますが、多くの教授は「仕事」に過ぎないと考え、多くの学生は「通過儀礼」としてしか感じていないようにも思うのです。どれだけ「うまく」単位を処理できるか。それが多くの「日本の大学人の目的」です。

私はここに大きな危険があると考えます。
営利や金銭の関係を含まない、異世代の純粋な交流を持てる機会を自ら捨ててしまう行為だからです。何年たっても懐かしく思える、感謝できる教授や先輩を手に入れられるかというチャンスを、です。

組織は目的を持っており、属する人達がそれぞれの方法で共通する目的を追っています。組織は様々な人がいますから、当然指導する人間が必要です。しかし、指導する側もされる側も同じ目的を持っているから、お互いがそれに向かって前進していくことになります。
指導者と被指導者が関わり合いながら一緒に目的へ肉薄していく。これも師匠と弟子の関係だと思います。つまり、人生の基準となる師匠を手に入れる為には組織がどうしても必要だと思うのです。
師匠と自分だけという極小な組織もあると思います。師匠も組織の中の個人であり、自分もそうである。その関係性を推進していく場が組織となる。
組織には目的がありますが、個人は常に人格全体で勝負している。「目的の事だけをやっていればよい」なんて事はむしろ、できないはず。それこそ公私混同であるべき…… 私はそう考えます。


(8)「日本人が」個人として自立するには
今回の問いである「日本人が個人として自立する為の方策」を、以上から考えてみます。
そうすると「日本人教からの脱却」をまず計るべきなのかもしれません。
グローバルと言う訳でもありません。日本人としての自信を捨てよというのでもありません。しかしそれらは基準にはならないはずなのです。歴史の長い日本と言えど「日本人は変化し続けている」からです。
上記の「自立」をした日本人が増えるのならば、日本は自ずと「地球での生き方」という基準を持てるようになると思います。人間的教育を深めているからです。
そうなれば、日本という国がすべき事が見えてくると思うのです。基準を元に、日本という国の環境を勘案できるようになるからです。それこそ日本が自由であると言えるのではないでしょうか。
その自由を手に入れた日本は、世界に対し躍動して大貢献できる国になっていると思います。
ですので、まずは私達個人から心を変化させていけば良いと私は思います。


少しまとめてみようと思います。

・自分とはこれまでのあらゆるモノの総合であり、これからも吸収変化し続けていく
・自分という不安定なものを人生の基準にしてはいけない
・人生の基準を探し、基準に自分を合わせていく挑戦を続ける
 (自分を一旦抑える場面もありうる)
・人生の基準を一つでも見つければ、それは自由を一つ得た事になる
・「自立」とは上記の「自分教」を脱却した状態を言うのではないか
・間違った基準は非常に恐ろしいものである
・まずは素直な心で受け止め、自ら考え実践していく必要がある
・その時の指針として「人間的成長があるか」「人間を主としたものか」を参考とする
・教育では子供たちの可能性を信じぬき、真剣に向き合う必要がある
・大学等の教育で「師弟」のような関係性を重視する
 (師匠は人生の基準となる)
・大学はこれまでの「知識偏重」「儲け主義」を反省し「人間性の練磨」を意識する
・「日本人教」を脱却する:自立した日本人が増えれば、日本が基準を手に入れられる
・結果として「自立した日本」になっていく


No20でyamanorisuさんが仰っている教育現場は私も心配になります。
子供たちの可能性を信じぬくという姿勢はとても大変なものだと思います。
教師はそれほど使命があり、難しく、心を使う仕事だと思うのです。
その教師がどれだけ「人生の基準」を獲得しているのか。大きな課題だと思います。
やはり私も、教育が「日本人の自立」を促す強力な一手であると思うのです。

私にも一応、基準があります。師匠と呼びたい方がいます。
一人になった時や「絶対にバレないような悪事が出来てしまう場面」になった時、その基準と師匠の事を考えるのです。その時、自分の中で大きな闘争が始まります。師匠だったらどうするか!?と。

結果として、誰が見ている訳でなくとも、私は悪事を働かずに済んだ場面があります。
そして職場で堂々としていられるようになりました。自分は間違う事はあっても、自分の心に負けることは無いのだ!と少しは思えるようになったからだと思います。