日本の様々なローカルな文化を世界に伝える効果的なアイデアとは?
グローバル化とは、世界が均一になることではありません。むしろローカルなものがグローバルに結びつくことを意味するので、ローカルなものの価値が上がる傾向にあります。日本人はそのことについてあまり意識的でないように思います。
今回の掲示板では、駅伝に限らず、日本のローカルな文化だけれども素晴らしいものを、どうすればグローバルに伝えていくことができるのか、みなさんからのアイデアを募集したいと思います。
国家が絡むような大きなアイデアでも良いですし、一人一人ができる身近なアイデアでも結構です。みなさんで知恵を出し合いましょう。
前回の投稿の後、本屋さんへ行ったけれど、William H Saito の「The Team (日本の一番大きな問題を解く)」が置いてなかったので、また、急いで家に帰って、Amazon.com で本を注文、コンビニ払いのコンビに受け取りというやつがあって、送料もいらずに便利。注文二日後に本が届いた。昨日読み終えて、今日はそのことについて一日中考えていました。・・・そして又一日。読んだ後、アイデアが頭の中で、奔流となってぶつかり合い、まとまりがつかない。
・・・それでも書く。書かなくっちゃ。
日本の一番大きな問題を的確に指摘したこの本は、私なりに観察、分析して来た日本社会の現実の問題点と完全に一致しているように思えました。当然私の方は、末端の役所や、生活の現場での問題点ですが、それが、日本の中枢でも同じく起きていることは、想像はしていましたが、改めて確認が出来、益々問題の所在が明らかになったように思います。「日本に、チームが無い」とは、つまり、人と人の間に対等な信頼関係が存在しないということに他ならないのではないでしょうか。言い換えれば、現在の日本のあらゆる組織(この中には、家族も入るかもしれない)は、上下関係の中の不信関係により成り立っているということではないでしょうか。中には、上下関係は存在するが、不信関係というのは、言い過ぎだという人がいるかもしれませんが、官公庁や学校では、人間関係に垢がつくという理由で、ほとんどが二・三年ごとに移動さされているようだし、銀行や、他の金融機関等、外部に信用を確保しなければならない機関は、内部者に対する不信感は年ごとに増しているような気がします。この頃は、警察官でさえ、部下からの密告を気にせざるを得ない状況になっています。家族が心休まる最後の砦となってくれているといいのですが・・・
今、日本には「チーム」が無いという。それでは、あの戦後日本の高度経済成長はどのようにもたらされたのでしょうか? その頃、私自身が、働く現場にいなかったので、軽々にいうのは、はばかられるのですが、あえて言うならば、敗戦によって、儒教による上下関係の強さが弱まり、それまでもあった、目上のものが目下のものを育て、いたわるという、完全に形骸化してしまう前の儒教の教えが人と人との結びつきに信頼関係をもたらし、あたかも「チーム」のように機能させていたのではないかと思うのです。そして、上下共に、お互いを思いやる教えが消えた今、数値で選別する上下関係が、前にもまして強まり、人間不信の関係が新たに作り出されたということではないでしょうか。そして、ひとは、思いやり無しの上下や金銭関係だけで支配される時、保身の為に、心に不信感を成長させながら、どんどん本音と建前を使い分けるようになるようです。つまり、William Saitoのいう、Teamとなる為の前提条件である、Team の中で、自分の弱点を話題にできるという事が出来ない人間となってしまうということでしょう。そして、それを無理に続けると心を病み、始めから出来ないものは、社会や学校からからドロップアウトし・・・今、様々な社会問題が、このようなことを背景にもたらされているように思えてなりません。
今回の、桜宮高校の体罰によるキャップテンの自殺問題も、この上下関係の中の不信関係から生み出されたものと考えていいと思います。そして、このような状況は、何度も言うように、ひとり、体罰が常套化してしまっている運動部の現状に止まらず、キャップテンがリーダーであるはずのクラブにおいて、そのキャップテンを道具のように扱い、顧問や監督が支配者として君臨する構図は、日本の組織のあらゆる部門に蔓延していると言ってもいいだろうと思います。かの、角田美代子の似非家族事件も、オームの支配関係も、現代の日本の凡ての組織に共通する、乗り越えなければならない日本の最大の問題と考えなければいけないと思うのですが、いかがでしょうか。
この度、橋下大阪市長は、桜宮高校の事件を受けて、教育界に対して、本質的な変革を要求しています。本来なら日本全国にその矛先を向けるべきでしょうが、それは、総理大臣になってさえ、一挙には無理です。今回の事態は、小さな小さな一歩ではあるとは思いますが、大阪から教育が、日本の錆び付いてしまったコンビナート組織が崩れ落ち、再生する一歩として、一つの現実的な第一歩として、その狼煙を上げたと理解したいと思います。
最後に、William Saito さんには、新しい日本の先導役として、組織変革に、ますます全力投球をお願いしたいのですが、より日本的日本人である私として、ひとつ、いいにくいことを言わせてください。「ザ・チーム」の中で、取り上げられている、個人主義化している日本、チームで鍛えるアメリカとありますが、私は、今でも、アメリカ人の方が圧倒的に個人主義だと思っています。日本人には個人主義ということが理解できていないし、個人主義の反対である集団主義者が圧倒的に多いです。そして、チームを作るには、一人一人が独立して尊厳を持つ、個人主義が不可欠だと思うのですがいかがでしょうか? これはなにも、William さんが間違っているというのではなくて、明治維新に、日本人が individualism を個人主義と訳し、集団主義的感覚の強い日本人が、個人主義を人とは関係を持たない利己的、孤立主義的というような感覚で使うようになった事からくる、用法の齟齬のようなものだと思います。そこで、私が提案したいのは、「ザ・チーム」で使っている「個人主義」という言葉を「自分主義」というような言い方にしたらどうかな、と思うのですが、どうでしょう? William さんが見てなけりゃしょうがないか? でも、もし、この投稿を読んでる人が「ザ・チーム」を読んだとして、そこの所を考えながら読んでくれたらうれしいなと思います。