体罰に効果はあるのか
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
橋下徹さんは、学校を、再生させるために、一度、学校を、破壊しようとしているのでは、ないでしょうか? 学校制度の崩壊から抜け出る道を探す、橋下徹さんは、ある状況に立たされているがために、有無を言わさぬ力をもって、私たちに迫ってきているようです。そして、橋下徹さんは、もしも、私たちが、誤解しているのであれば、その政治判断基準を、どうやって作ったかではなく、なぜ私たちが、そのような懐疑を、持ってしまったかということに対しても、その懐疑が発生する仕組みを、理解しようとしなければ、あるいは、答えられなければ、とても、人々に対して、りっぱなおこないをすることは、期待できないのではないでしょうか? そうでなければ、橋下徹さんは、何をしてもかまわないことになるのです。
私は、橋下徹さんは、次のように言われるのではないかと、想像しています。
体罰をした教師が、罪を償えば、それでいいのか、と。今回の事件で、最も重要なことは、新たな自殺者を出さないことではないか、と。
あらたな犠牲者を出さないために、橋下徹さんは、いかなる規則、法体系をも、定めるのではないでしょうか。
ただし、その規則体系に従っていても、実際問題のすべてを理解し、見通すことはできないのは、必然です。けれど、言葉だけで、その場しのぎをしていてもいけない。私は、一回性というのは、まさに、人間の命は、一つしかないからであり、ウイリアム・ジェイムズの言うとおり、例え、一人の権利を侵害することで、それと交換に、数百万、数億の人々が幸福になれるとしても、それはしてはならないというのが、道徳だと、思うのです。
橋下徹さんは、生命を守るための法体系と、道徳を、危険なディレンマを持たせることなく、両立させることができるのでしょうか? 私たちの生活の危うさを、露呈させるだけではなく、それをいっそう危ういものにすることこそ、避けていくことを、強く望んでいます。
あの、茂木健一郎先生は、今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えておられたのに、なぜか、私は、生命をまもるための施策、と、捉えていて、話がズレてしまって、すいませんでした。。。(T_T) うまくまとめられたら、また、投稿させて下さい。(>人<;)