体罰に効果はあるのか
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
茂木さんの劇薬とはうまい表現ですね。なるほど。そんな感じがします。
良薬口に苦し 程度なら良かったのに、、、。と個人的には思う。
劇薬は人にどのような影響を与えるのか。橋本さんは何を見ているのでしょうか? 教育というものに関して。
亡くなったご遺族への想い、橋本さん自身の組織者としての責任。多くの想いをお持ちなのだろうと想像します。橋本さんの動きは勝手な主観ですか裁判官のような印象です。
命を奪う行為。交通事故で人を死に至らしめることがある。運転者が殺そうと思っていなくても罪は罪。以前、車の教習で道路は本来走っては行けない場所だと教わり驚いたことがある。勉強をして初めて道路を走ることを免じて許される。だから免許なのだと。だから、もし仮に、歩行者に過失が多くても免許の重みが係るのだと。ふと、思い出しました。
教習では危険予測。リスクマネージメント。それをルールとともに教わった。
人の育ちに関わるというのは簡単ではない。今はhow to 本という育児書のようなモノが多く出回っている。試してやってみるのは経験として意味がある。でもうまくいかず悩む人ほど自分が悪いのではと自信をなくすこともある。なぜなら子どもは一人ひとり生まれや育ちが違い感受性も発信力も表現力も違うから。通り一遍等なやり方で通用しないこともある。指導に入ると、伝えたいこと教えたいことが優先になる。子どもの立場に立ってものを考えるというのは同時には困難があったりする。その子どもとの常日頃の関係性が影響するのだと感じます。
私は大学で教員免許資格をとり、採用試験に合格し、私は教員を10年ぐらいさせて貰う機会がありましたが、悩みの連続でした。子どもに向き合い指導を行っていることが、本当に本人の将来の力になるかどうかなんて見た目でわからない。なんの保証もないのです。だから不安な日々でした。日々の関わりを振り返るしかない。指導ってなんやろうっていつも考えていた。
今、教育現場の現職教育は衰退しているイメージです。細分化された教育。管理職や他の分掌からくる書類の束。授業。親とのやりとり。子どもの生活指導。進路指導。HR活動。クラブ活動。行事の運営。子どものケース会議があったとしても主任関係者中心。クラブは顧問中心。みんなで見合うということは体制的にない。セクト的です。でも実情は子どもは色んなところでいろんな教員が関わっている。皆が支え合えればいいけれど、限界もあった。時間に追われ、仕事に追われ、教員自身が抱え込む今の教育現場。支え合いは教員だけでなく、親とも子ども同士とも、地域ともつながっているはずなのに。
自分は不安や想いを良くも悪くも多く出すタイプだったので、近しく仕事をする理解ある教員仲間が兄姉のように、色々と心配りをいただいた声かけ頂き世話になりました。それでも解決というスッキリ綺麗に治まるものばかりではなかったです。体育会系の指導スタイルは私にとっては理解を超えるものでした。腹が立つことも正直多くあった。自分の発言で相手を不愉快にさせることもあった。相手は相手の教育理念があったのかもしれない。今思うともっと理解し合えたら歩み寄りがお互いにあればよかったなと思う。
激動の社会。右往左往の教育。教育現場はその変化や人とのつながりの変化を子ども達と一緒にどう主体的に乗り越えていけばいいのか手探り状態なのだと感じています。
私もchigusaotsuki さんと同様に考えがまとまっていません。。。
chigusaotsukiさんの橋本さんの前半に書かれている捉え、ほんまそんな感じやなぁと共感します。