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体罰に効果はあるのか

バスケットボール部の体罰事件に関連して、橋下徹さんは「事件を起こした高校の入試を中止にしたほうがいい」とおっしゃって波紋が広がっています。この橋下徹さんの主張する「入試の中止」は、まさに劇薬です。

実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。

ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。

僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。

NO.5   makimako 2013/01/23 13:30:34 合計 27pt.

 自殺をするほどまでの体罰とは、いったいどれほどのものであったのか?それを容認していた学校ということもちょっと驚いています。私自身が今まで過ごしてきた学校では、実際に体罰という部分で、そこまで深刻になることは、なかったように思います。廊下に立たされてスリッパで頭をたたかれた、プールの脇で水着で正座させられたということが、私が覚えていることです。しかし、今、こう言葉に表して書いてみると、批判されるべき体罰の部類に入る物であるかもしれませんね。ただ、当時、本人達は、あれ、ちょっと痛かったよねー、こっちにだって遅刻した理由あるのにね。というくらいの受け取り方だった感じがします。でも、人の受け取り方は、様々ですので同じくらいの体罰だったとしても、全く違う受け取り方をするかもしれませんね。

 実際、自殺をするまでの体罰ということで想像すると、病院に行くくらいの傷や痛みを伴う物であったり、外傷が残るくらいのものを一瞬、考えてしまいますし、また、明らかにそれはだめであろう範囲を超えていたのではないかと、感じます。でも、ここで、それはあくまでも、想像であり、もしかしたら、体罰の痛みがどうのこうのという事ではなく、何らかの精神的苦痛が大きかったのかとも考えられますし、きっとその精神的苦痛の大きさでのことだったのではないかとじっくり考えてみるとますますそう感じてきます。

 ですので、今回のテーマが、体罰に効果はあるのか?というところで、いったい体罰と言われている物が、いったいどのようなことで、というのがわかりかねますので、私自身が思う体罰というところで、理性的に考え、また子育てと同じように考えたら、基本的に、体罰は、良くないのでは?また、効果もないのでは?と単純に思ってしまいます。また、それは、その人同士の関係性にもよるところが大きいのでは、と思ってしまいます。
 しかし、その体罰といわれるものが、一人一人の学生に対して、その個性を尊重し、理性的に対応されれば、効果のある場合もあるのでしょうか?

 今回の橋本さんの判断は、その学校の状況を確認し、それが、容認されるべき物でないことを厳重に受け止め、二度とあってはならないものと考えたためのものだとわかります。
 時に橋本さんの対応は、それはやり過ぎだろうと思うこともありましたが、今回のこの件は、事の重大さを世の中にも伝える事となったのかなと思います。

 常に、物事には、その受ける人の許容範囲、精神状態、また対応される人の誠実さ、感情、性格、そういう物のすべてが、関わってくるのではないかと思います。
 例えば、よく昔の学校の罰のイメージの中で、廊下で水の入ったバケツをもって立たされているというのがあると思うのですが、これもそれをやらされている学生によって、きちんと反省をする学生、また、それが、全くもって意味をなさない、ただの反発精神をあおるだけの物になる場合だってあると思うんですよね。

 ですので、人と人との関係性、信頼関係、またその他のいろいろな状況によって、物事の捉え方や取り方は、全く変わってくるのではないかと考えます。


 そして、再度、投稿されていた方のコメントを読み直してみたら、chigusaotsukiさんが、最後、下記のようにしめくくられておりました。
> あの、茂木健一郎先生は、今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的な>ものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えておられたのに、なぜか、私は、>生命をまもるための施策、と、捉えていて、話がズレてしまって、すいませんでした。。。

 ああ、そういう論点だったのか、と、改めて、私の論点もずれていたのかなと、思いつつ、でも、世界は、やはり、人と人との関わりにあると考えます。しかし、ここ最近は、その人と人との関わりが、不信感やあまりにも自分の考えを持たずにマスコミに流されてしまっている世の中であるなあと感じています。また、私もいろいろな人の意見を読ませていただきたいと思います。そして、再度考えたいと思います。