体罰に効果はあるのか
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
辞典には、「体罰=懲らしめの為に身体的な苦痛を与える事」とあります。
つまり、肉体的な苦痛を与える事で服従させる事を目的とした暴力行為であり、権威の主張だと僕は認識しています。
過激な置換になってしまうのですが、今回の大阪での事案を受けて、「体罰 or 暴力=武力的制圧」と言う風に捉える様になりました。
無抵抗状態の相手に“ちから”を持った行為を行う事で、相手の意欲を奪い、服従させる為の支配体系だと思うのです。
これは、旧ソ連の生理学者I.P.パブロフの犬を使った反射の実験と、その本質を一緒にさせている様に思います。
そんな言い方をすれば怒られると思いますが、これは脳に刺激が入り、それを脳が電気信号を使って唾液を出させる様にする、という「脳支配」とでも言えるモノで、旧ソ連の場合、だからこそ、受け入れられた理論でした。フィードバック、トップダウン形式の中央集権的な思考だからです。
そのパブロフに対してN.A.ベルンシュタインは、そうでは無くて、皮膚や身体内にある感覚がこれから起こるで有ろう身体動作に対して先導する、つまり身体感覚達が予測を持って、あえて崩しているフィードフォワードを提唱します。人の動作は崩してこそ成立する、と。
簡単にすると、脳から身体各器官、だけでは無く、身体各器官から脳への逆説的なシグナルが存在し、その交流によって人間の動作行為は成り立つんだ、と言った訳です。各器官はそれぞれが“意志を持った”状態で動く、と。
そのベルンシュタインは中央を追われました。何故なら、中央政府や研究機関が“危険な思想”だと認識したからです。その証拠に、彼の著した「デクステリティ」という本は1947年初版だったにも関わらず、1999年になるまで日の目を見る事がありませんでした。
だから、体罰や暴力で相手を従わせる、というトップダウン形式の(無理矢理な)意思伝達方式は似ている、と考えた訳ですが、日本の旧来的な教育方針の中には(教育法が関係なくなってしまう所では)自らの考え、行動している事に間違いが無い、と言う事が前提で事が運びます。
つまり、暴力や体罰をかす側は“絶対的な存在”である、と言う事を示す事です。
それというのは、中央集権的な考え方であり、それが“絶対的な価値”を持つ、と信じるからこそ、罷り通って来たのだと思います。
ここからは論理の飛躍になってしまうのですが、それらの暴力行為を受けた状態で学校を卒業する、と言う事は、そのトップダウン形式を潜在的に植え付けられている事となり、結果的にそうやって受けて来た人たちが日本の社会を作っている訳です。
勿論、それだけで日本が成立している訳ではないとは思いますが、そうやって上から押さえつけられる事が“当然”として扱われて来ている事は、“思考停止”を招く要因として考えられてもおかしくは無いのではないでしょうか。
軍隊的な規律を求める組織には必要だとする意見が多くあると思います。
それは、その失敗が自らの団体、もしくは個人の“命”に関わるからであり、それだけの認識を持ってもらう為、という…で考えれば効果が認められるのかもしれません。
しかし、学校教育において“生命”に関わる様な失敗、というのはあるのでしょうか。ましてやスポーツの活動中における生命の危険を冒す様な失敗、というのは、スポーツに関わる人間として全く想像ができません。
球技系の競技において、自らの行為を否定され、暴力を受ける、と言う事は「創造性」を奪います。
相手との駆け引きがドンドン下手になります。競技が楽しく無くなります。せっかく巧くなる為に入った学校で巧くなる要素を削がれる訳です。
これは上記の軍隊組織の“生命の危険”と同じで、その危険性が無いにも等しい環境の中で、それを問われ、今回の事案の様に、結果的に“自らの命”を絶つ、という答えを“指導”してしまった事は、あまりにも自虐的すぎる規律なのではないでしょうか。
以上です。
ENDO,Ryosuke