体罰に効果はあるのか
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
皆さんのいろんな考えや思い。。とても考えさせられます
dapetteさんの言葉とても心に響きました。
愛情と伝いたいことの程度のバランス。なにかそのようなものを感じます。
指導の程度と伝え方の手法。そして本人を信じる心。
そもそも指導ってなんなのか。体罰って何なんやろう、、とまた改めて思う。
私は親には手を挙げられたことはない。でも父親から小さい頃に叩かれそうになったことがある。
きっと、生意気なことを言って反発したのでしょう。おぼろげな記憶。でもきっと叩かれたら、許せないと思い続けたと思う。感情だけで判断していたから。
dapetteさんと同じく私も万引きをしたことがある。私は小学校低学年の頃、素敵な音楽のなるメッセージカードがあって、お小遣いが足りなくてでもどうしても欲しくて。いくらぐらいのやったのか。1000円ぐらいだったか。それがバレて、母親は私に内緒でこっそりそのお店に返しに行ったのだけはわかった。すごく迷惑かけて私は2度と死ないって心に決めた記憶があった。すごく情けなかった。
人に更生して欲しいと時の親の愛情って、、自分に向いている時には心底伝わるものがある。
でもそうでない、相手の思い通りにさせたい気持ちからくる指導に感じるとカチンとくるし、受け入れがたい。もしかしたら誤解も行き違いもあるかもしれない。受け入れるには幼すぎた経験しか持ってない場合もあるかもしれない。
指導の上での暴力が伴うケースは、本当に理解しがたい。生徒同士が喧嘩したらいかなる理由でも喧嘩両成敗。でも、教員が手を上げるのはなんでOKってなるのか。。。
子どもの喧嘩同様、相手が萎縮し追い詰められることもあるとは思わないのか??
子どもが、一方的に子どもに危害を加えるときは、かなりの時間と手間をかけて指導を行った。それはその行為が人の居場所を奪い萎縮させる行為だから。
知ってる体育の先生は、そんなアホなことをうちのクラブの奴がしたら俺がボコボコにするって威張って言っていた。。。なんが動物を扱ってるみたいな発言やった。
今回の櫻宮のケース。ことはもっと複雑な気がする。橋本さんのツイッターをみて感じました。深刻。
桜宮にあこがれをもつ子ども。程度がズレた指導。外向けにいい顔が立つ結果や成果主義傾向にある高校。そしてそれを助長する世間の目。なぜなら結果で世間は判断し、入学の競争率も変わるから。
教育って本当は形にならない子どもの様々な育ち関わることに意味があったりするのになと思う。
またもやまとまりませんが、ふと書き込みたくなりました。。