トップ 書籍一覧 メルマガ一覧 ご利用ガイド サロン・通信講座

体罰に効果はあるのか

バスケットボール部の体罰事件に関連して、橋下徹さんは「事件を起こした高校の入試を中止にしたほうがいい」とおっしゃって波紋が広がっています。この橋下徹さんの主張する「入試の中止」は、まさに劇薬です。

実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。

ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。

僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。

NO.12   chigusaotsuki 2013/01/27 05:07:40 合計 21pt.

体罰が行われていた高校で、高校生も、保護者も、教員も、体罰はあってはいけないことであると、多くの方が、気づいていらっしゃるのでは、ないでしょうか? 体罰の心の痛み、体の痛みは、暴力として、記憶に刻まれて、あまりにも、痛々しく、何より、人間を見くびっています。 もともと、人間は、体罰がなければ、成長しないなんていう教育論自体に、なぜ高校生も、保護者も、教員も、疑問を抱かないのでしょうか? 日本の教育のレベルは、そんなに低いのでしょうか? 1968年11月8日に、東大紛争では、教官有志は「基本的人権の重大な侵害。大学を無法地帯とする愚挙。」と声明を発表しましたが、私は、体罰こそ、基本的人権の重大な侵害であり、学校を無法地帯とする愚挙に、思えてなりません。

東大紛争では、医学部処分問題や大学運営の民主化などの課題をめぐり争われました。今回の事件で、橋下徹さんの指令はなくても、高校側は、学校運営の民主化を、強く主張できたのでは、ないでしょうか? 人間は、間違いを、おこします。でも、間違いを認めて、そこから変わる力があるのに、橋下徹さんは、変わるには、もっと、時間がかかると、判断したのです。でも、体罰をやめることなど、1日でできることでは、ないでしょうか?

橋下徹さんは、多数の方から、反発を受けているようですが、橋下徹さんは、学校自治の放棄を、求めてはいないようです。むしろ、学校自治活動の自由化、今後の高校の改革の方向性などを、高校生や保護者や教員に、求めているようです。

1968年12月29日 東大紛争では、加藤学長代行と坂田道太文相が会談、「現状のままでは入試中止。1969年1月15日までにスト解除・授業再開の見通しが立てばその時点で再考」とすることで意見が一致したのに対して、文部省(当時)が、大学側の意向を無視し1969年度の東大入試中止を発表して、東京教育大学も体育学部を除く入試中止を決定しましたが、今回の事件でも、その「現状のままで」あり続けることなど、できないことは、誰もが、わかっているはずです。高校生や、保護者や、教員に対して、橋下徹さんが、その能力を、過小評価したことは、非常に残念なことと、思います。