体罰に効果はあるのか
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
体罰を防止する施策が、体罰的になる構造・・・
と考えていて、体罰ではないけれど、自己啓発セミナーについての本を読んで、違和感を感じたことを思い出しました。
自己啓発セミナーは、自ら人格変容を望んで料金を支払って受講するもので、自分の思い込みに気づき、そしてその殻を破るために、長時間休みなしのプログラムを通して、ややもすると肉体的、精神的に疲弊しながら、生まれ変わった自分を手に入れようとするものであるそうです。自分の変わりたいという気持ちもあるけれど、外部から与えられたプログラムによって変容する過程に、自ら変わろうとして試行錯誤していく過程とは異なるのではないかと違和感を感じました。言い過ぎかもしれませんが、殻を破って新たな自分になるというよりは、社会に適応的な人間になるために、新たに洗脳され直すような印象を受けました。
No.12のchigusaotsuki さんが書かれた、
高校生や、保護者や、教員に対して、橋下徹さんが、その能力を、過小評価したことしたことは、非常に残念なことと、思います。
と同じように、相手が、あるいは、自己啓発セミナーの例の場合は自らが、自分の内側から自発的に変わることができる、と信じることができない中で、ある時期までにこのように相手は、あるいは自分は変わるべきである、と思いこまれた時に、体罰的な行為が生まれてくるのかもしれない、と思いました。
人間は社会的な存在であるとともに、唯一の命である個としての存在でもあり、それはもともと相容れないあり方をはらんでいると言われます。そして体罰的なものは、社会的人間としてあることが、個としての人間であることよりも過大に要求されるような状況では、どのような場においてもあらゆる形で生まれる可能性があると思いました。
今回の学校における体罰については、No.5のmakimakoさんの
「人と人との関係性、信頼関係、またその他のいろいろな状況によって、物事の捉え方や取り方は、全く変わってくるのではないかと考えます。」
と同じように感じます。
体罰はあってほしくないと思いますが、全くなくなるようにするのは難しいとも思います。赤毛のアンのシリーズでも、教師になったアンが、どうしても従おうとしない子供に思いがけず体罰を行い、以後その子供は従うようになったけれど、アンにとって、大きな痛みを伴う体験だったシーンは、生々しく覚えています。体罰は、それを行う側もまた、同じ痛みを伴うものなのだと思います。そうでないものは、単なる暴力なのだと思います。
また、No.13のorcamieさんが例に挙げた中田英寿さんの罰走のエピソードからもわかるように、体罰を受ける側が抗議する余地や、受けないという選択もできる余地が必要だと思います。そのような余地が無い場合も、体罰ではなく単なる暴力だと思います。
最後にテーマからずれるかもしれませんが一つ付け加えたいです。
PTSDの治療をする現場では、同じ痛みを体験しても、心の傷として残る人と残らない人がいることの原因の一つに、その痛みの体験をどのように受け止められたか、が大きく影響する、ということがわかってきているそうです。この結果は、自分の体験に照らし合わせても、そうかもしれない、と感じます。
このことは、心に痛みを受ける人は決してゼロにはならないであろう世界に生きる人すべてに知ってほしいし、私自身真摯に受け止めたいと思います。