体罰に効果はあるのか
バスケットボール部の体罰事件に関連して、橋下徹さんは「事件を起こした高校の入試を中止にしたほうがいい」とおっしゃって波紋が広がっています。この橋下徹さんの主張する「入試の中止」は、まさに劇薬です。
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
何度も書いてしまうことになりますが。。。
私は 東大の入試中止と今回の桜ヶ丘高校の入試中止は
少し性質が違うのではないかと思っています。
確かに 入試中止が強制終了的で 体罰的な側面を持つ事は否定できませんが
東大紛争の場合、抗議した学生や教員は 制度改革や待遇改善を訴えていたのに対し
桜が丘高校の学生や保護者、そして学校は 現状維持を希望していたように見受けます。
入試中止を求めた大阪市側、そして教育委員会もしぶしぶなのでしょうか
体罰を禁止する、状況改善を主張して入試停止を決めました。
No.13で触れましたが、
桜ヶ丘高校の生徒が「私が死んだら体育科が復活するのか」のような発言を聞くと
明らかに、この高校の体育科の先生は 指導を誤ったのではないかと思ってしまいました。
なぜ、体罰の無い体育科を存続してくださいということや、
それについては生徒も最大限の努力をしますとか
体育科存続を訴えて署名活動をするなど
もっといろいろな方法があると思うのです。
普通科の生徒からも体育科は桜ヶ丘の誇りだから残して欲しいと言ったような
援護する発言も聞こえませんでした。
体育科は この学校で他の科とうまく共存していたのだろうか
という疑問も持ちました。
No.16のmasamiさんの指摘にありましたが
かの赤毛のアンも体罰をしてしまって苦しんだのだということ。
よく生きるということ、人を育てると言うことは
正解がないだけに難しいんだなとつくづく思います。