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体罰に効果はあるのか

バスケットボール部の体罰事件に関連して、橋下徹さんは「事件を起こした高校の入試を中止にしたほうがいい」とおっしゃって波紋が広がっています。この橋下徹さんの主張する「入試の中止」は、まさに劇薬です。

実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。

ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。

僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。

NO.18   sana805 2013/01/29 08:49:55 合計 24pt.

orcamieさんの投稿、共感します。

〉東大紛争の場合、抗議した学生や教員は 制度改革や待遇改善を訴えていたのに対し
桜が丘高校の学生や保護者、そして学校は 現状維持を希望していたように見受けます。

大学紛争は学生も主体者であった。でも大阪のケース、主体は大人になっていた気がする。
学生に主体はあったのか。

そもそも体育会系の高校進学希望者は純粋に得意なジャンルを活かして強くなりたいと憧れている。希望があるのです。強くなりたい、うまくなりたい、栄光を掴みたい。
顧問を乗り越えたいなんて思う生徒は皆無に近いと思う。むしろ認められたい。それはお墨付きと同様な意味合いを持つ。認められ居場所ができる。だからどんなにつらくても顧問の指導の先にはきっと目指す栄光に進むための意味があると思い込んで信じてしまう。

人を乗り越えるって反抗期がわかりやすいかと思いますが、力がついてきて初めて自分の力を試したかったり、親のいう事に違和感を覚えたりするとき自分の思いを押し通す。それが反抗と映る。それは対立であり勝負を挑むということになる。長年月の指導の達者な相手に数年の経験者が対立するなんて赤子の手をひねるようなもの。

高校教育は義務教育より専門性が高くなり、教職員の生徒との関わりはよりセクト的である傾向があります。保護者も思春期の子どもにどう関わるか手加減を悩む時期でもあります。 僕が責任をとりますなんて成果を出している人が言うと組織内で皆が黙る。組織も保護者も力のある人に依存している現場。それが無意識的にお世話になってるからという気持ちにすり代わり不条理がかき消されたりする。そんな雰囲気を感じます。

顧問と生徒の関係。おかしいと思っても抵抗する力が足りなさすぎる。結局、顧問の課題になり向き合う管理職の課題となり、システムの問題になっているのが今の現状のような気がしています。生徒は毎年循環する。でも顧問はその中で失敗成功を繰り返しある意味、指導という成長をして力を拡大する。自分の指導に慣れると麻痺して見失うこともある。

人は誰しも完璧ではない。立場のものは孤独な戦いをしてる。その行為をどう支えて関心を持って対話して協力してきたのか? 顧問の独裁だったといえばその通りだけど、民主主義って憲法でも唄われてる。国民の不断の努力がいると。責任はみんなにあるのだと個人的には思えています。