体罰に効果はあるのか
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
体罰の即効性は、あります。
痛いので、最初は、やります。間違いなく、辛いので。
成果をすぐに出さなくてはいけない現代では、会社でも体罰とまでいかなくても、当然、
尻を叩かれ、いや、心も叩きのめされ、明日、成果を出す事を望まれる。
そのような現代に、「すぐに成果を出すために」その理由のために、体罰は、
「仕方なく」「最後の手」を使うのだと思います。
周りから、明日、成果を出す事を命令されたら、自分が死ぬか、相手を叩くかでは
ないでしょうか。
しかし、問題は、これは、即効性のみです。
なので、いずれ、体罰をされ続ければ、「伸びたゴム」になります。
伸びきります。伸びる事も出来なくなります。つまり、死ぬ場合も出て来ます。
すみません。過激で。
だから、体罰は、即効性はあっても、将来性は、まったくありません。
続かないんです。成果を短期間で出し続けるなんて。。。
決定的な事は、
すぐに成果を出さなくてはいけない。「日本の流れ」に問題があると考えます。
成果は、まったくもって、早く出るわけがないのに、です。
長い年月かけないと本当は、良いものなんて出て来ないのに。です。
すぐに、すぐに、すぐに、って焦らせ、
成果、成果、成果と連呼する。
だから、最後の手を使うしか無いんです。
それが、人間が人間に罰を与えて、無理矢理、生み出させるということです。
確かに、反面、経済が傾けば、日本にいる私たちは、危ない。
だから、崖の上で罰を受けながら、戦っている人がいるから、今があります。
しかし、この状態をいつまで続けるのでしょうか。
崖の上で、今、何人戦ってくださっているのでしょうか。
橋本さんのように学校を押さえ込んでも、
「なぜ、体罰をしなくてはいけないのか?することに至ってしまうのか?」
は、解決するのでしょうか。
体罰しなくてはいけない程の「「成果主義」」がそこに潜んでいるように思うのです。
体罰をやめたところで、成果主義は消えていない。
きっと、また、すぐに出さなくてはならない成果のために
体罰と同じぐらい即効性のある「何かを」
見つけてくるのではないか。と思うのです。
そうしなければ、「成果」が出ませんから。
成果主義があるから、体罰が存在すると考えます。
「成果主義」って、本当に恐ろしい言葉だと思います。
駄目だこりゃの後(笑)、考えたことでした。。。
学校と社会をごちゃまぜに書いてしまい、すみません。。。