体罰に効果はあるのか
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
terurun さん の文面 納得! 「成果主義の恐ろしさ」 確かにです。
体罰の本質。即効性。でも持続可能ではないこと。
茂木さんの、「今の子どもたちが、現状でいいんだ、学校は、このままでいいんだ、と言うこと自体が、日本の停滞を象徴しているようにも感じます。」という言葉も
自治が進むことは持続可能のキーだと思っています。でもそれを支えるサポートも同時に不可欠な気がしています。
今回のケース、学校自体が積み上げた栄光を潰さないと子どもが潰れるかもという危機感のなさが一番痛いとこだったのかなと個人的に思えています。教育と集団と成果って複雑に絡んでいる気がします。教育が企業化している。
橋本さんの押さえ込みも言われると確かにそう感じる。でも本当に押さえ込みだけなのか。
橋本さんのやり方は過激です。彼のやり方なのだと思う。それを選んだのは市民。
その影響は、また市民に還って影響を与える。命が奪われた現状の彼なりの収め方であり、新たなスタートなのだと思って見ています。
体罰の本質からは外れますが、命が奪われたという重みをどう捉えるのか。
chigusaotsukiさんが以前書かれていた
〉高校生や、保護者や、教員に対して、橋下徹さんが、その能力を、過小評価したことは、非常に残念なことと、思います。 という言葉が思い出されています。
はじめは私も橋本さんは教育現場に踏み込む判断をして、なんて僭越な行為をしているんだろうと驚きました。でもせざるおえない状況と判断したのだと思います。
命を奪った原因を明らかにして軌道修正すること、学校の関係者を信じること。でも放置でない関わり。難しい舵取りをされていること想像します。
成果主義とは目的が成果を出すことになっているから本末転倒で問題に見える。
教育の目的に沿って過程のなかで成果が生まれることは、発展だと個人的に捉えています。
なんども書き込んですみません。教育問題はとても気になっているので。
一意見として