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体罰に効果はあるのか

バスケットボール部の体罰事件に関連して、橋下徹さんは「事件を起こした高校の入試を中止にしたほうがいい」とおっしゃって波紋が広がっています。この橋下徹さんの主張する「入試の中止」は、まさに劇薬です。

実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。

ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。

僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。

NO.24   Tomoikukai 2013/01/31 15:08:33 合計 5pt.

私は、先の投稿で、我々は、自らが作り上げた「洗脳マシーン」によって洗脳され続けて来た事に気付き始めています。と書いて、中途半端に終わってしまいましたが、これからその続きを書こうと思います。

まず、「洗脳」という言葉を少々安易に使ってしまいましたが、少し軽率だったと思います。というのは、「洗脳」というのは、今まで持っていた価値観を、精神的、時には物理的手法によって、全く違ったものに入れ替える時に使う言葉だと思うからです(個人的には、本当にしっかりした価値観を持っている人に対して、その価値観を変えてしまう事が出来るのかどうかは疑問だと思っています。変わってしまう人は、元々しっかりした自分の価値観を持っていなかったのだと思うのですが・・・)。しかしながら、我々は成長に伴って、周りの文化や環境から、何らかの価値観が刷り込まれ、その価値観をよりどころとして人生を歩んでいるのだと思います。だから、私が「洗脳マシーン」と表現したものは、「オーム」の電気刺激洗脳マシーンのようなものではなくて、その時代の、宗教観や文化に染められていく中でも、人生を歩むには、他律的な価値観、いわゆる偏見を抱かせるような仕組みや環境の事だと思っていただきたいと思います。

実際、私自身も、偏差値依存教育が始まった頃、他律的に大学受験を志しました。中学生の頃は理科が好きで、物理学を目指していたのですが、将来何をするかの目途は立たず、唯、評価された自分の偏差値に従って大学を選ぶという、完全に受け身な高校時代を過ごしました。そして、受験。この時、東大が無かったのです。それで、玉突き式に偏差値が高くなって、志望を変えなかった私は受験に失敗。一浪の後、渡辺格(わたなべいたる)の「生物学のすすめ」を読んで、日よった私は、生物学に転向。「生命とは何か」を考えようとして入った学部は、ただ、表面的な現象を取り扱うだけで、やる気が出ず、寮や下宿に止まって、その頃人気だった「高橋和己」や「ソルジェニーチン」「ショーロホフ」などの小説ばかり読みあさっていました。(そういえば、「赤毛のアン」や夏目漱石、コナンドイルのものは、中高生時代に、勿論日本語でだけれども、凡て読みました。)授業は必要最小限に出席して、卒業はギリギリ4年でクリアしたのですが、在学中に印象に残った本は、「オパーリン」の生命の起源ぐらい。全く無駄な4年間を過ごしたものです。今やり直すとしたら、アメリカに留学するとか、英語で論文を書けるようにするとか、何か目標を持ってやれるような気がします。とにかく、高校までの私の生き方は、他律的に偏差値教育の流れに乗っかっていただけで、浪人の一年間を除いては、押し付けられた課題をただ不器用にこなしていただけだったと思います。

それが、大学に入って、学生運動のせいもあって、それまでの権威が一時的に否定(文化大革命の影響もあってか、教授達に自己批判を迫って吊るし上げ集会が開かれた事もあったらしい。私はノンポリだったので、集会には出た事が無い)されたこともあって、自分のやるべき課題は、突然自分一人で考えるはめになってしまいました。正に、それまでの依存体質からニーチェの実存主義的世界へと放り出された感じでした。私は途方にくれ、小説の世界に早々と逃げ込んでいったのでした。それで、当然といえば当然なのですが、卒業する頃には、全く自分の進路は決める事が出来ず、北海道を皮切りに放浪の旅路を行く事となります。その流れの中で、青年海外協力隊に参加する事になるのですが、今、4人の子供を持った身として考えた時、親父は寺の跡継ぎである私をよく我慢して見守ってくれたものと、今更ながら、その寛容さに驚き、敬愛の情がわき起こります(今年は親父の33回忌にあたります)。今、こんな親はいないだろうな・・・アッ私が近い・・・蛙の子は蛙。子供達よ安心しろ。君たちは自由だ!

そういう訳で、私は学生運動の後半戦の傍観者なのですが、その最中は、その運動の意味も、方向性も殆ど見当がつきませんでした。連合赤軍の浅間山荘事件が起こった時、私はボーリングにうち興じていたのですが、その日の日記には、

「連合赤軍の人々よ、私が大人になって、世の中が分析できるようになるまで、私がこの事件を評価するのを待ってください」

と書いたものです。・・・そして、少しは世の中の事が解るようになった今、あの運動を振り返ってみると、学生達が、安保闘争を皮切りに、アメリカ軍と結びついた、日本の権力機構にがむしゃらに戦いを挑んで、始めは、一般の同情を得ながら、次第に力で押さえ込まれることによって内部分裂を起こし、最後は内ゲバ化して、崩壊していったという事になるのでしょう。一言でいうと、「学生達が若気の至りで、一途に凡ての権力、権威に立ち向かっていって、敗れ去った闘争」じゃなかったでしょうか。

その後、学生運動が下火になって、吊るし上げられた教授達の中にも学生運動の親派がいて、その人達は、「近頃の学生はおとなしくなって、言う事はよく聞くけど、覇気が感じられない」と嘆いたものでした。つまり、権威の前には、一切反発しなくなったという事だと思います。権威に従順な学生達は、私の例でも明らかなように、偏差値で輪切りにされるシステムによって家畜化されていったのではないかと思われます。学生運動を主導した、我々の少し前の先輩達までは、我々が頼もしいと感られる、リーダーシップを持った人達がたくさんいました。私たちが、ちょうど、権威に刃向かう事の出来た、最後の世代だというような気がします。

そのように、学生運動が力で押さえ込まれた後、世の中全体が、急速に、権力に対する帰順の態度を示し始めます。労働組合が、第二組合化し、国鉄や私鉄の組合も無力化。教育に目を向けると、偏差値社会はどんどん進み、今や、偏差値産業が、文科省から委託されて教育界を牛耳っている感があります。子供会は、名ばかりで、大人がしきり、学校には、小中高校は愚か、大学にまで自治の精神がない。そして、JOC を頂点とする、体協は、高校のクラブを巻き込んで、校長も手を出せない権力機構を作り上げている。実際、学生運動の、最後の抵抗である、安田講堂攻防戦と、それに続く東大入試の中止の後、世の中は、「絶対仕返しできないという上下関係の構図」を、どんどん強化していったのではないでしょうか。

そして、今朝のニュースをにぎわしているのが、柔道女子、オリンピックの強化選手達へのコーチの体罰事件です。その対応によって、はっきり見える柔道界の体質は、選手達を

「サーカスの猛獣のように見立てて芸を仕込むようなやりかたを公認している」

と言われても仕方がないと思います。人権無視の体質というより、柔道界は幹部に至るまで、本音の部分では、自分自身の人権以外は、他人の人権は気にも留めた事すらないのではないかと思われてなりません(警視庁の幹部でもあるそうだから、建前の部分では、挨拶の度に人権に言及していそうですが)。このように、「絶対に仕返しできないという上下関係の構図」に於いては、下位の者の人格は徹底的に否定され、隷属を余儀なくされていきます。これは、何も体罰がまかり通っている組織だけに限りません。William H. Saito の基準によれば、日本の組織のほとんどが、この上下関係を基としたグループ構造になっているようです。

ひとつ、学習塾の例を見てみましょう。私は、一度、小学校の学習塾で、子供達に英語を教えようと思い立った事があります。早速、大手進学塾へ行って、教務担当の方とお会いして、話し合ったのが以下のようなものです。

「子供達に英語を教えてみたいのですが」

「中学の入試に英語は入っていないので、必要ありません」

「では、理科を英語で教えたらどうでしょう」

「教師はマニュアル通に教える事になっているので、一分一秒の無駄も許されないのです」

「それでは子供達は、質問も出来ないのでは?」

「試験の点数を一点でも上げる為には、課題をこなすのが精一杯で、質問に応じる余裕なんかありません」

「それじゃ、子供達は何にも考えられなくなるじゃありませんか」

「でも、こんなやり方で、子供達の点数を上げてやらないとお母さん達は、すぐ、子供達を別の塾へ移してしまうので、塾の経営上仕方ないんです。」

「それじゃあ、子供達はどんないい大学へ入れたとしても何の役にも立たない人間になってしまいますよ。」

「確かにそういう現象は、既に出ていますが、そう言われても、われわれには、マニュアル通りに仕事する以外に、どうすることもできないんです。」

どうでしょう? 体罰はないとは思いますが(子供が、強制的に塾へ行かされている場合には、発生するかもしれない)、進学塾という熾烈な競争の中で子供達が家畜のように扱われ、人格を否定される構図は、桜宮高校のバスケット部や柔道女子の強化合宿と殆ど共通のものがあるのではないでしょうか? これでは、sana805 さんが、前々回に投稿された、三重県津市で、子どもの権利条約をつくるためにということで、子供に密着して行われたというアンケートや条約づくりも、なかなか、他の地方にまで広がって、全国の子供達を解放してくれる所までは行けそうもないような気がします。

このように、日本の組織の中では、「絶対に仕返しされないという構図」の中で
日々、当たり前のように人権侵害が起こっているのですが、マスコミが取り上げるのは、自殺とか、何か事件が起こってしまってからです。特に、オリンピックの強化選手達の練習ぶりは、テレビや新聞等でよく見聞きしますが、体罰その他の、人権侵害に関わるような記事は見た事も聞いた事もありません。当然、取材記事を書くときは、選手個人のインタビューや意見の聞き取りも行う筈ですが、選手には内部の事は話してはいけないという箝口令でもあるのでしょうか? 作戦や戦略に関してはそういうこともあり得ようと思いますが、もっとオープンな取材を心がけるべきだと思います。そういえば、ワールドカップ南アフリカ大会で見せた、フランスチームの選手と監督の対立は、監督もチームの一員であるべきだという文化を見せてくれたのだと思いながら、改めて振り返ってみると、彼我の違いに驚かされます。とにかく、マスコミの人達は、人権侵害の行為が無いのかといった視点からの取材も、常に心がけなければ、この、権力、権威には楯突けないという現在の文化を変える事は出来ないように思います。(そういえば、現在では、マスコミこそ、正攻法で権力や権威に楯突かない代表格となっているのかもしれないですね)

それでは、最後に、「洗脳マシーン」によって、金縛りにあったみたいな権威に楯突けない心理に、風穴をあける呪文。

Why? 「なぜですか?」「どうしてそれをしなければいけないんですか?」

(上から目線の相手からは「口答えするな!」というお叱りが聞こえて来そうですね)

「The Team (日本の一番大事な問題を解く)」にも書いてあったけど、小さいときから、What? 「なにをするの?」から Why? 「なぜそうするの?」という会話のし方に変えていければ、裸の王様の正体は一瞬に明らかになっていくような気がします。

Why? なぜって、What? では指示待ち症候群だし、Why? って、なんか対等な相手に言い返しているような雰囲気がありませんか?