体罰に効果はあるのか
実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。
ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。
僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。
茂木さんのUstをみて「have fan」 と「個性」という言葉、一番印象に残っています。
Tomoikukaiさんの様々な経験の中でよくよく考えてきたのだなと感心する思考、orcamieさんの温かでしっかりと芯のある思考、terurunさんの素直な感性。正に個性的で掲示板で面白くて参加したくなる。
読んでいて思い出すのは、一番といっていいほどの影響をもらった高校生活時、先生が「沢山失敗したらいいんだ、最後に成功したらいいんやから」 とおっしゃっられていたこと。
それは私にとっては嬉しい言葉でした。自分で決めて、やりたいことが試してできるということ。
傍から見たら突飛なことも許される。丁寧に積み上げる人も許される。じっくりすることも許される。やるだけやって上手くいかなくても許される。(人に迷惑をかけることを許してるというのではなく)
自分なりに決めてやってみる、それから皆のも知ってすごいなって思うのも見て、また考えてやってみる。
その繰り返しが楽しかった。これが先生にうるさく言われてコントロールされたら楽しくなかったろうと思う。個々の違いを良さとして影響を受けて自分に活かす。そんなことが今はかけがえのない経験だったと思っています。
モノづくりで人と関わってきた人生なので、究極人がいなくなったら私はモノづくりもしないだろうと思う。
人に求められる成果は外発的動機付け、そこに重きをおくと義務になり苦しい気がします。
have fan は内発的動機付け、継続するんだと思う。自分がしたいかどうか。とか
抑圧されたところからの解放エンパワメントに近い感じ。何クソ今に見ていろっていうのもそうだし。
なんか自分の成長につながって楽しいからやってみたいとか。
今の子どもは学校外の時間も塾や習い事で忙しい。管理されてる。公園一つ何かあると大人は大騒ぎ。
子どもの世界。自分の世界。うるさくあーだこーだ言われない時間。個々の違いがKYとか色々口うるさく言われることなんか気にしないで、ありのままが認めれられる感じになればいいなと、理想かもしれないけど個人的には思っています。