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体罰に効果はあるのか

バスケットボール部の体罰事件に関連して、橋下徹さんは「事件を起こした高校の入試を中止にしたほうがいい」とおっしゃって波紋が広がっています。この橋下徹さんの主張する「入試の中止」は、まさに劇薬です。

実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。

ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。

僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。

NO.29   ryosuke85 2013/02/01 18:56:23 合計 10pt.

makimakoさんの
>日本の教育社会では、先生の言う事は、正しいという構図が成り立っているような気がしています。先生が言ったから、先生がやる事だから、と、疑問も持たずに支持していては、おかしいこともそのままになってしまいます。

という部分なのですが、これというのは、思考停止している状況であり、その状況が作られてしまっている事自体が危険だ、という認識を持たないと行けませんよね。

思考停止するまでには、ボクの大好きなマンガの中に荒木飛呂彦の「ジョジョの奇妙な冒険」があるのですが、第二部に登場する最終決戦の相手のカーズというキャラクターが主人公の苦肉の策でマグマの噴火を受け、宇宙空間に投げ出された際に、何とか地球に戻ろうとするも、空気を発する事で凍り付いてしまい、結果的に何も出来なくなり、自分で死ぬ事も出来ず、最終的に「考えるのをやめた」というシーンがあるのです。

これというのは、自らが意志を持って発現しようとした行為が全て否定され続けた結果に起こった、言い方を変えれば至った“思考”な訳ですが、体罰を与える、という事は再度、ボクの意見の上塗りになってしまうのですが、「思考や意見を奪う事」を指していると思うのです。

sana805さん
>子どもの世界。自分の世界。うるさくあーだこーだ言われない時間。個々の違いがKYとか色々口うるさく言われることなんか気にしないで、ありのままが認めれられる感じになればいいなと、理想かもしれないけど個人的には思っています。

という意見、非常に同意なのですが、結局、いつまでも「大人」だと自分で認識している人たちが、「子供」を「子供扱い」しているからこそ、あーだこーだなっているんだと個人的には思っています。

親があーだこーだ言うのも、ボクは子供からしてみたら一つの体罰だとすら思っていて、その姿を見るのは、非常に嫌なものです。

ボク自身、年齢的に幼い頃、両親とともに出掛けた飲食店で自分の父親が店員さんに対して注意・指摘する姿は見るのが非常に嫌なものでした。

しかし、きちんと自らの意志を持った上で、その姿を見れる様になった頃からは、全く持って逆の発想で見ていました。
自分の父親は「客としてされて嫌だった事」をお店に伝えているだけだったのです。

それは、自分の父親が自ら飲食店を経営しているからこその助言であったわけですが、それをそのお店の方々に伝える事は一切しませんでした。

自分の父親を完全肯定する訳ではないのですが、それをきちんと説明してくれていれば、ボクの子供時代における父親像も変わっていたかもしれません。

結局、自らの意見をどのように表現するのか、という所を「大人」だと認識している人間は、小さな人間に対しても意見を求めるべきだ、という事をボクは自分の父親から学んだ様な気がしています。

問いかけるだけの器量と余裕があれば、体罰なんて起こらないのではないでしょうか。