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体罰に効果はあるのか

バスケットボール部の体罰事件に関連して、橋下徹さんは「事件を起こした高校の入試を中止にしたほうがいい」とおっしゃって波紋が広がっています。この橋下徹さんの主張する「入試の中止」は、まさに劇薬です。

実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。

ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。

僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。

NO.31   Tomoikukai 2013/02/03 15:43:26 合計 5pt.

オリンピック柔道女子日本代表の園田監督が辞任しました。テレビの映像では、スローモーションにしたりして、ふてぶてしさを演出しようとしていましたが、人格の卑小さは微塵も見られず、むしろ、あっぱれな決断との好印象の方を強く感じました。こんな、好青年(好壮年?)がどうして体罰を繰り返していたのでしょうか?

問題の鍵は、どうも、園田監督が、警視庁に所属している事にあるような気がします。私の義兄は、数年前に警視庁を退職した、元刑事なのですが、彼は、現役の頃、剣道に熱中していました。私は、一度その練習風景を見学にいった事がありますが、ただの練習であるにもかかわらず、その場の空気はとても張りつめていました。中学校や高校クラブ活動で見て来た、どことなく甘さの残る態度と違って、一人一人が醸し出す雰囲気は、正に真剣勝負といった所でしょうか。私は、柔道の練習の方は見ていないのですが、テレビで放映される、園田監督の指導風景を見ると、やはり、柔道の方も同じなのだろうと思いました。

私は、これまで、「絶対に仕返しをされないという、上下関係の構図」で起きる人格否定に対して、日本の組織の、乗り越えなければならない大きな課題だと発言して来ましたが、これは、凡ての組織に一律に当てはめなければならない問題だと言う訳ではなくて、命令違反が、即、人命に関わりかねない組織、つまり、警察や消防署、軍隊などでは、時として、一糸乱れぬ行動をとる事が要求されますし、その上下関係も、信頼関係に裏打ちされていないと、十分な活躍は期待できません。そんな組織の中では、それこそ、形骸化していない儒教の構図は、むしろ望ましい事です。園田監督の大胆にして、細心とも見える、人間性は、この組織と、人間関係の中で育って来たのだろうし、非難すべき所は、何処にも無いように思えます。

然し乍ら、今回、オリンピックの女子柔道の強化合宿では、園田監督にとっては、当然と思える、体罰を加えながら指導するというやり方が、完全否定されました。国際柔道連盟の会長からも、近代柔道の創始者である嘉納治五郎先生の教えに全く反しているとして、強い非難の声明がありました。これはどういう事でしょうか?

私も、講道館系の合気道を教えてもらっている立場から言うと、国際柔道連盟の体罰をする事に対する非難はよくわかります。そして、真剣に選手を強くしたいという、園田監督の気持ちもよくわかります。それでは、何処がどう折り合いがつかないのでしょうか? 

私は、警視庁系の武道のやり方が、本来の武道とは違った発展をして来た事がこの問題の後ろに隠れた鍵だと思えてなりません。つまり、警視庁の武道は、即、実践の効果を要求されます。犯人を取り押さえる時、甘いことを言っていたり、油断すれば、逃げられたり、時には、殺されたりするかもしれません。大げさに言うと、彼らは、武道を通じて、命を的に鍛錬を積んでいるといっても過言ではないかもしれません。それに対して、スポーツとしての柔道、特に、オリンピックの種目となった柔道では、同じ真剣勝負といっても、始めから、ルールに乗っ取った競技としての柔道です。そこでは、なによりも、一人一人が、一個の人格者として扱われ、各選手それぞれの意思が尊重されるのは、当然の事です。

然し乍ら、日本の体育会系は、特に強いチームの強化は、どうやら、警視庁の鍛錬方法をモデルにして確立して来たのではないかと思えてなりません。そして、これは、ひとり、体育会系だけではなくて、そのやり方は、日本の教育界全体に影響を及ぼしているように思えます。例えば、日本の学校の入学式や卒業式は、本来、朗らかで楽しい筈の催しが、外国の人に言わせると、まるで、軍隊の教練のような雰囲気だし、学校に出席する事への義務感は、それが出来ない者にとっては、正に挫折感の積み重ねです。数え上げるときりがないのでこれだけにしますが、とにかく、色んな、警視庁方式の訓練や練習は、「絶対に仕返しの出来ない上下関係の構図」がどうしても必要な組織だけにとどめて、そこから一歩外へ出たら、「スポーツの世界」「武道の世界」「一般社会」(「教育の世界」も当然入ります)へと、衣を脱ぐように変身していただきたいと思います。

 警察と消防と自衛隊以外、警視庁方式のやり方はなくなってしまえ〜〜〜

あくまでも、警視庁方式は、警察官としての公式の態度であり、その他の世界は、人間の顔の見える、人と人とが出会える場として使い分けていただきたいと思います。

そして、この、公私の使い分けが、また、日本人の苦手な所で、本音と建前の使い分けとどう違うのか、いつかまた考えてみたいと思っています。

あの、好青年(好壮年?)の園田監督が、非難の的になるのは、ちょっと違うのではないかと思い、緊急に投稿を試みました。
纏まってなかったらゴメンナサイ