「成果主義」について考える
真に効果的な「成果主義」。あまりにも漠然とした提示で困惑しています。
教育職についていた癖が出てしまいますが、目的があって成果があるので、目的がなんであるかで目標や成果も捉えが変わる気がしています。
報酬系部位という部分が脳にはあるのですね。報酬部位が喜ぶ刺激。
世で言う成果至上主義。行動、観測、結果、統計、分析そしてまた行動。
成果は上がるとその瞬間嬉しい。そして次はより以上を目指したくなる。可能性が見えると面白い。
成果は右肩上がりだと成長であり幸せに感じる。 成長は幸福感の一つなのかなと思う。
ただその先に物理的限界がある場合もある。今の経済は右肩下がりに感じて不安で幸せに感じない。
だから別の成果を探すほうが幸せを得られる気がして自ずと視点を変えたくなる。
客観性のある成果は、人びとから認められるので心地よい。地位という居場所もできる。
でも本来あるべき居場所とは能力や成果を認める認めない関係なくありのまま受け入れられることだと思っている。何に目的を求めるか。他者の目的に求めるなら、成果を出せない時、自分の膨大な無償の労力や同情という犠牲で許してもらおうとする。それで居場所を確保する。
他信なのだと思う。時には他信も必要。そして自信も必要。
自信って孤独から生まれる気がしています。チャレンジして飛び込んで経験の中から自分で掴み取るしかない。自分で自分をOKする視点や思考をどれほど持てるか。
私は子ども支援に関心を持って時に関わっています。子どもの可能性に惹かれているから。
関わり方で子どもは生きる力を存分に発揮する。もともと人間として持っている力。そこに直接関わることが面白い。子どもの成長は無垢で右肩あがり、子どもたちがどのような価値観をもち次世代を形成するのか。そのために必要な適切な関わりってどうしたらいいかってずっと考えている。
それが私の力になり成長なのだと思っているから楽しい。
私の報酬は形じゃない。感謝を感じられたり、喜ばれたりすること。一緒に遊んで楽しめること。
それは私が経済的に紛糾するほどでない環境に居させてもらえているから。
これが苦しい生活なら感謝をお金で貰いたいと思う。
ギブブ&テイク。 これは形あるものないもの関わらずあるのではないかと思う。それが人とのつながりになり。 それが自分を豊かにする成長だと思っている。それが私の中での成果。
客観的な、真の成果主義と言われると、正直どう捉えていいかよくわかりません。。。
思いつきまで。