日本人が個人として自立するためにはどうすればいいのか?
もの、之を独立自尊の人と云ふ」。これは福澤諭吉の言葉です。でも、明
治以来、日本人の「独立自尊」はまだ達成できているとは思えません。ど
うしたら日本人に「独立自尊」を根付かせることができるのか。言い換え
ると、「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか」。前回の「組
織と個人のあるべき関係とは?」から引き続いて、議論をしていきまし
ょう。
長すぎてご迷惑をおかけし、1日戦々恐々としておりました。
私もNo18の、「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、普遍的に存在するというのではない、という点について意見を書き込みたいと思います。
この文章がどのような流れで書かれていたのかは分かりませんので、額面どおりに受け取ると……
「自分で自分のことを表現するのって無理じゃね?」っていう事なのかな、と考えました。
たとえば日記に書かれる事は全て真実でしょうか?日記は人によって大きく書き方の変わるものでもありますが、それがすべて真実とは限りません。創作を含む人もいますし、希望を羅列する人もいます。
また何か自分の功績を聴衆に発表する事になった場合、その原稿は「精密に事実を記したもの」になるでしょうか?恐らくはドラマっぽくなったり、多少盛り上がるようにしたり、そういうことがあると思います。
ゲーテの自伝「詩と真実」でも、序文で「作品を作ったときの事を語ろうとすると、本当に色んなことを書かなければならない。突き詰めると、自分以外の事、自分に影響してくれた色々な人達のことも出てくる」というような事を記述しています。
ですので私はNo18にて紹介されている……
<「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、
普遍的に存在するというのではない>
という部分は「自己を語る自己が存在しない」と言うのではないと思うのです。
「自己」とは大部分が「あらゆるものをごちゃまぜにして固めたもの」で出来ているのだ。
そう主張しているのではないでしょうか。
ゲーテはこうも続けています。
(引用)
「また、誰でも僅か十年早くか、遅く生まれていたとすれば、その人自身の教養から見ても、外部への影響から見ても、全然別人になったと言い得るくらいに、否応なしに人間を拉し去り、人間を規定し、形成するものとしての時代を知れという要求なのである」
(以上引用)
時代も含めたあらゆるものが総合されたものが自己ですから、今日語った自己と明日語る自己では異なる事になります。そもそも、語っているのはその 総合 ではないでしょうか。ですから「普遍的に存在するものではない」と仰っているのだと思います。
決して「自己の喪失」とか、そういったことではないと思うのです。
あえて自己とは「あらゆるものの総合」だと知れ、という主張であると思いますが、いかがでしょうか。