「成果主義」について考える
私は、正直言って、成果主義とはどういうものなのか、実際に体験していないので、実感する事が出来ないのですが、ウィキペディアその他で、調べた事を基に、私なりの理解、見解を書いてみたいと思います。
「成果主義」という言葉と、「実力(能力、ここでは、特に断らない限り、実力と能力を同じ意味で使う)主義」という言葉がありますが、「成果主義」を英訳するとresultism だし、「実力主義」は、merit system です。これを、私流に解釈すると、組織に「実力主義」を取り入れようとすると、「成果主義」を基に、人を評価すれば、大体、実力が反映された組織になるはずだという事でしょうか。しかし、これは、実力や努力だけでは、必ずしも、いい結果が得られる訳ではない事を考えると、成果というものは、実力を測る、色んな指標のうちの一つにすぎないという事になるのではないかと思います。だから、日本の企業も、一時は、「成果主義」を取り入れて、組織を活性化しようとしたけれど、結果だけで評価するのは、どうしても無理があり、不満、不公平感、ノウハウの私物化という風な弊害によって、今や、大きく修正を迫られていることのようです。
しかし、今日、日本にもグローバル化の浪が押し寄せ、企業、学校、役所等、多くの組織では、各個人の能力に従って、適材適所を実現しなければ、激しい競争には、勝ち残れないという現実が突きつけられています。年功序列や、終身雇用制を排して、何らかの「実力主義」を導入する事は、殆どの組織にとって、もはや、避けて通れない課題です。一人一人の能力を、最大限に発揮できる環境を整え、組織全体として、競争力を増して生き残りを計るというのが、「実力主義」導入の目的だと言えると思います。
それでは、そもそも、「実力主義」とは、どういうものなのでしょうか? 実力(能力)といってもいろいろあります。スポーツだと、巧かったり、強かったり、早かったり、その他、判断力や精神力、リーダーシップもあるかもしれない。一概に、この競技には、この実力が必要と決めつける訳にはいかない所がありそうです。企業等、色々な組織でも、部署、部門によって、必要とされる能力はそれぞれに違いがあるのは、当然の事だと思います。これを茂木さん流にいうと、「実力を見る為の「評価関数」が多すぎてなかなか適切な判断が出来ない」という事になるのではないかと思います。そう言う事をふまえて、競争力のある、「実力主義的組織」を実現する為には、色んな指標によって、個々人の能力を、一人一人総合的に判断して、その人が最大限能力を発揮できる場所を見つけるという、気の遠くなるような作業が必要となり、また、それをやり遂げられる人材も必須となります。私は、全くの素人なので解りませんが、多分、外国の経営学なんかでは、こんな分野が、学問として成り立っているのではないかと想像されます。
ということで、今回のテーマ、「成果主義について考える」に対しての私の考えは、今、日本のほとんどの組織では、組織を効率化し、競争力をつけることを目的として、「実力主義」を取り入れようとしていますが、適材適所を実現する為に個人の実力を評価しようとしても、経営者側に人材もノウハウも無いので、安易に、「仕事をした成果」だけで人を判断しようとしている。というふうに思います。そして、成果によって、人を判断しても、それを励みに益々能力を開発するというよりも、むしろ自己満足や挫折感に陥り易いということや、誰がどれだけ貢献したのかは、意見が分かれる所だと思うので、不満、不公平感は当然出てくるだろうと思います。だから、「成果や結果」だけを基に人の能力を評価するやり方は、あまり利口なやり方ではないのは確かなようです。
さて、前置きはこれくらいにして、これからが本番です。
「成果主義」のことを考えていると、terurunさんの投稿にも出て来たように、「体罰」のことが同時に思い浮かびます。これは、「成果主義」は、「褒美をもらう事」だし、「体罰」は、「罰を受ける事」で、何れにしても、「御上」から「下し置かれる」ものです。つまり、ボスが部下を支配する構図は、「成果主義」も「体罰」も同じ仕組みになっていると思っていいと思います。この、上下関係の構図は、どちらの場合も、「上には逆らえない」という日本の上下関係のなかでは表立って文句は出ないでしょうが、不満が内に溜まっていきます。主従の礼がうるさかった戦国時代でさえ文武両道に優れた明智光秀が、織田信長を討ったように、「成果主義」や「体罰」は、組織にとっては諸刃の剣となります。とくに、儒教が形骸化してしまった今日の日本の社会や組織の中では、一人一人の実力を伸ばす為には、「成果主義」や「体罰」は、効果が上がらないどころか、時には逆効果になる事さえあるようです。
私は先に、このグローバル化の浪の中で、日本の組織にとって、「実力主義」を実現する事は避けて通れない課題だと書きましたが、私自身には、その道筋を示せるような経験も見識もありません。ただ、先日、そのヒントとなるような考え方に出会いましたので、ご紹介したいと思います。
それは、レフ ヴィゴツキー(Lev Vigotsky)の、Dynamic Assessment という主に語学能力を高める為の、評価指導方法です。(あるいは、皆さんご存知で、私一人が知らなかったのかもしれませんが、その時はお釈迦様に説法をやらせてください)ご存知のように、児童心理学者のピアジェは、子供の知能や発達に関しての理論を構築しました。そして、その多くのものが、子供の教育現場で、今でも有効です。しかしながら、ピアジェの考え方は、能力の発達を後追い的に確認するもので、例えば、発達の各段階で、試験を課し、それを達成するかどうかでその段階の学習達成度を確認するという形をとるようです。つまり、これは、現在日本の教育制度で実施している、達成度確認テストを子供達の主な評価基準としているという事に通じるものがあります。これは、まさに、「成果主義」とは言えないでしょうか。偏差値教育もこの流れにあるようです。これに対して、Dynamic Assessment では、テストで達成度を測るという事はしません。指導する側は、コミュニケーションを通じて、その場その場で、被指導者を評価します。そしてその課題とする達成度を評価すると同時に、弱点を補強し、次の課題へ導くヒントを与えていきます。つまり、一人一人の達成度に応じて、一人一人が、自分の課題に気付くように導きます。偏差値教育が、上から目線で、生徒達に一律に課題を課すのに対して、ヴィゴツキーの考え方は、生徒に自分自身の課題を考えさせ、それを解決する方法を評価者と一緒になって見つけようとするもののようです。我田引水で申し訳ありませんが、ヴィゴツキーのこの考え方は、Tomoiku(友共育・Synducation)の考え方と、かなり近いものがあります。
なぜ、ヴィゴツキーの考え方がすばらしいかというと、彼の方法論は、発達段階にある子供達だけに適応されるものではなくて、組織のリーダーとフォロワーとの関係にも適用できるという点です。ピアジェの考えでは、子供が発達段階を終われば、実力は確定してしまいます。まるで、東大に合格すれば、一生その実力のままで、世間に通用するのと似ていますネ。それに対して、ヴィゴツキーの考え方では、企業に就職した後でも、官庁に入所した後でも、チームの中で、実力は、何処までも伸びる可能性があります。(当然、東大卒だけとは限らない)つまり、これはどういう事かというと、ボスと部下からなる「グループ」の中での「実力主義」というものは、確立してしまった実力を基準に組織が運営される、つまり、「成果主義」とあまり違わない「実力主義」と言えるのではないでしょうか。一方、リーダーとフォロワーからなるチームの中では、いつまでも、お互いが切磋琢磨し、弱点をガバーし合いながら、それぞれが強みとする実力を何処までも高めていける、実力増強システムのような「実力主義」という事になりはしないでしょうか。
纏めると:今、日本社会は、グローバル化の浪の中で、年功序列や、終身雇用制に変わって、実力主義をとり入れなければ、いずれ、世界の舞台からは取り残されてしまうと思われるが、「逆らえない上下関係」の文化のままに、実力主義を導入してみても、それは、「成果主義」となって、なかなか競争力の向上にはつながりそうもない。日本の組織の競争力を真に、高める為には、組織を、グループからチームという考え方に変えて、実力を高める事が出来る実力主義を導入すべきである。
最後に:今年春の選抜高校野球に福井県から、二つの高校が出場する事になりました。一つは、敦賀気比高校で、もう一つは、春江工業高校です。気比高校は、以前、監督の体罰が問題となり、強かったチーム(グループ)の監督が解任された事がありました。その後、新聞記事によると、今回のチームは、一人一人が自分の課題を考えて、得意の分野の能力を何処までも伸ばす努力をしていて、例え正選手で実績があっても、いつ補欠になるかわからない程熾烈な競争があると言う事です。そして、春江工業、こちらの方は、トレーニングの方法まで自分の頭で考えながらやるという事で、徹底的に選手の自主性を重んじているようです。特に春江工業高校は県大会でも殆ど注目されずに、チームワークの良さで、一戦一戦実力をつけて来ました。チームに実力主義を導入したモデルのようなケースです。どちらも、甲子園で活躍して、これからの日本のモデルとなったら嬉しいナ。