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レスリングのオリンピック競技除外について考える

2月12日、国際オリンピック委員会(IOC)は、ロンドン五輪で実施した26競技の中から25の「中核競技」を選定しました。その「中核競技」から、レスリングが外されてしまい、2020年の夏季五輪で競技として認められない危機となっています。

ツイッターやメルマガでも言及したように、オリンピックは時代とともに変化します。テレビの普及によって、全人類が試聴するグローバルなイベントになりました。そうなれば古代ローマの時代とは性格も変わってきます。

例えば、商業化も一つの必然でしょう。放送権料も高騰して、アメリカのNBCは、4大会の放送権に対して3480億円を支払ったとも言われています。それぞれが自国に有利な祭典にしようと動くので、政治的な駆け引きも必要になってくるでしょう。

今回のレスリング除外危機に対して、日本はどのような対応をできるのかということは、グローバル化した世界に対して、日本はどのような働きかけをできるのかということと、本質的には同じだと思います。

さて、日本はどのような態度を取るべきなのでしょうか。ご意見お待ちしています。

NO.7   Tomoikukai 2013/02/24 20:24:48 合計 23pt.

chigusaotsuki さんの意見に賛成です。日本のレスリング、特に日本の女子レスリング競技は、日本独自に、人気スポーツになっていったように思います。だって、女子のレスリング選手で日本人以外の日本人に人気のある選手はいますか? アッ 男子でもいいです。オット、男子には、日本人にもいないかナ?という事は、日本に金メダルを取るような強い選手がいなければ、オリンピックの中核競技からレスリングが外されたからといって、多分、レスリング関係者以外の日本人は、誰も、殆ど関心を示さなかったのではないかと思います。私個人としては、女の人がレスリングをするのは、アマゾネスみたいで、嫌いです。女の人は女らしい人が私は好きです。

(これは、女の人は女らしくしなくてはいけないといっているのではなくて、私の個人的な好き嫌いです。多分、多くの女の人も、男らしい男の人がいいと思っているのではないかと思いますが、違いますか? 男らしさ、女らしさも、また何時かテーマに取り上げてくださると面白いかもしれませんネ)

とにかく、私は以前から女子のプロレスは、肌が合わずに、テレビで放映されていても、一度もまともに見た事はありません。イスラムの世界とか、また、西洋世界でも私と同じように、女の人がレスリングをするのをいたたまれなく思っている人はずいぶん多い事だろうと想像されます。それが、オリンピック種目の中に、女子のレスリングが入って来て、マスコミに乗せられるかのように、日本人の中から女子のレスリングに対する拒否反応は薄らいでいきました。(私は未だに見ないけど)つまり、女子のレスリング競技に対する人気は、日本の中で高められただけで、世界中の人が注目している訳ではありません。オリンピックから、レスリング競技が外される事に対して、日本人としての意見を、IOC に抗議する事は出来ると思うのだけれど、ちゃんと理由をいって、しかも、英語で言わなければならないとなると、中々それを買って出るという人もいないのじゃないかと思います。これが、いわゆる、日本のガラパゴス化の一例だと思います。

さてと、レスリングの事はこれくらいにして、次は、強引に英語教育のガラパゴス化に移ります。

今日の福井新聞のトップニュースは、待ちに待った「TPP 交渉入りへ」でした。
私が、TPP に参加する事によって、最も期待している事は、アメリカに準拠した、教育の自由化と正常化です。その中でも、完全にガラパゴス化している、英語教育の“革命”です。

TPP に参加すると、交渉事に障壁が無くなる訳ですから、基本的に、英語で話し合う事が多くなると思います。直接一般市民が交渉の当事者になる可能性もあります。逆に、日本に来た外国人と、自由にビジネスをする機会も増えるかもしれません。そんな中、通訳を雇っている時間もお金もないし、当事者自身が英語を理解する事が要求される場面が多くなると想像されます。ところが、現在の教育制度の中で英語教育を受けて来た日本人のほとんどは、長年勉強して来たにも関わらず、簡単な英語を聞き取る事さえ出来ません。先日の新聞紙上では、日本人のTOEFL テストの結果が、世界最低クラスである事が示されました。このようになってしまった原因は一体何処にあるのでしょうか?また、それに対して、我々は、どう向き合っていけば良いのかを考えてみようと思います。

先ず、何故日本人の英語力が低いかというと、色んな原因がある中で、日本人は、語学力が優れているということが挙げられると思います。これは、一見現状と矛盾していると思われるかもしれませんが、日本人は、数世紀にもわたって、あの長い教典や論語、その他多くの中国の書籍を、ものの見事に日本語に翻訳してしまいました。今、日本の文化と呼ばれるもののほとんどは、中国起源のものなのに、どれもこれも、あたかも日本独自の文化のように消化し尽くしてしまいました。こんな語学の達人でも、明治になって、西洋列強に負けまいと、西洋の科学や文化を取り入れる為に膨大な西洋の文献を日本語に訳すのは大変な事だっただろうと思いますが、思想や哲学の思惟方法を除いては見事すぎるぐらいにやり遂げたといっていいだろうと思います。この翻訳技術が明治維新の近代化を成し遂げた原動力といっても過言ではないでしょう。アジアその他の国で、こんなに見事に西洋の文献を自国の言葉に翻訳し得た国は、恐らくなかったのではないかと思われます。(これはあくまで想像ですが、その頃、日本だけが、近代化を成し遂げた事を考えると、ほぼ間違いなかろうと思います)

時が変わって、グローバル化が進行中(もうだいぶんたったけど)の現在、日本は、相変わらず優秀な翻訳家、通訳達の独壇場です。私が、高校時代に習った先生は、ずいぶん後になって、亡くなる前、

「私たちのしてきた英語教育とは一体何だったんだろう?もしかしたら、五万人に一人の翻訳家を作る為の教育だったのかもしれない。それ以外の人にとっては、何の為に勉強したのか解らないまま、全く無駄なことを押し付けてしまったのかもしれない」

と述懐されておられました。そして、この五万人に一人の翻訳家が、他の人よりも飛び抜けて優秀であるため、結局、一般の人の英語を学習するモチベーションを奪ってしまったのではないでしょうか。結局の所、今の英語教育は、翻訳家や通訳を作るために構築されたもので、その為、英語の先生に英語の早期教育の話をすると、殆どの人が、

「英語は、日本語を身につけてから、中学から始めれば十分です」とか

「小さいときから、英語も日本語もと欲張ると、結局どっちもものにならない」

といわれます。これは、英語を勉強する目的は、「翻訳家になることだ」という意識が強い為だと思われます。

これに対して、翻訳技術の未熟だった、他の多くの国では、グローバル化の浪が押し寄せると、直接英語で商売したり、色んな交渉をせざるを得ませんでした。これらの国では、グローバル化ということは、即ち、他国の言語を習得して、仕事を得たり、商売をしたりということを意味することだったのかもしれません。そして、このことこそが、これらの国の語学力を急速に高めていった原動力になっていったものと思われます。

それでは、英語のスピーキングスキルでは、世界最低となってしまった日本のとる道とは、一体どんなものが考えられるでしょう? 私は“革命”しかないと思っています。

つまり、翻訳家や通訳(英語の教師も入るかもしれない)といった特権階級を作る為の英語から、庶民が仲良く井戸端会議が出来るようになる為の英語習得に思い切って転換するのです。つまり、one way communication English からinteractive communication English への転換です。日本語には、本当に重要な言葉なのに interactive に対する言葉がありません。元々、日本の文化の中に、「言い返してはいけない」という不文律が根付いてしまっているかのようです。
私が前の投稿で言及したヴィゴツキーのDynamic Assessment も、このinteractive という概念がないと理解が難しいかもしれません。語学の効果的な教授法であるDynamic Assessment はinteractive skill が必要不可欠です。そういう意味では、現在の英語の特権階級である、翻訳家や通訳、それに英語の先生達は、このinteractive skill が必ずしも十分とは言えないような気がします。そう言えば、来年度から高校の英語の授業で導入されるという Teaching English in Englishでは、よっぽどinteractive skill に秀でた先生でないと、とても授業が成り立たないと思います。だから、当面の英語教育革命ではDynamic Assessment を実践する為には、ネイチブの教育専門家に期待せざるを得ない状況だということを、どうやったら人々に理解してもらえるか、Tomoikukai の最重要な課題なのです。

今月の27日赤崎小学校で、初めての英語紙芝居のデモンストレーションをします。今の所、私のinteractive communication English に対するアプローチは紙芝居を通してです。これがどのように発展していくか? 樹下の微睡みは私の活動報告書でもあります。