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レスリングのオリンピック競技除外について考える

2月12日、国際オリンピック委員会(IOC)は、ロンドン五輪で実施した26競技の中から25の「中核競技」を選定しました。その「中核競技」から、レスリングが外されてしまい、2020年の夏季五輪で競技として認められない危機となっています。

ツイッターやメルマガでも言及したように、オリンピックは時代とともに変化します。テレビの普及によって、全人類が試聴するグローバルなイベントになりました。そうなれば古代ローマの時代とは性格も変わってきます。

例えば、商業化も一つの必然でしょう。放送権料も高騰して、アメリカのNBCは、4大会の放送権に対して3480億円を支払ったとも言われています。それぞれが自国に有利な祭典にしようと動くので、政治的な駆け引きも必要になってくるでしょう。

今回のレスリング除外危機に対して、日本はどのような対応をできるのかということは、グローバル化した世界に対して、日本はどのような働きかけをできるのかということと、本質的には同じだと思います。

さて、日本はどのような態度を取るべきなのでしょうか。ご意見お待ちしています。

NO.8   ryosuke85 2013/02/25 16:17:47 合計 20pt.

茂木さんが指摘されているように、すでにオリンピックは近代オリンピック創始頃のアマチュアリズムを既に置き去りにしつつあります。

1936年、ナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラーがレニ・リーフェンシュタール監督を擁して作成した「オリンピア」は、今までの概念にとらわれていない、純粋なオリンピック映画として今現在も評価が高い映画です。

しかし、その裏には、ご存知の通り“宣伝の舞台”としての位置づけがあったことも事実。

そこからオリンピックは良くも悪くも各国の“プロパガンダの舞台”となり、社会主義国の台頭をオリンピックの度に目の当たりにする形へ変遷してきた過去があります。

それが1980年後半から90年半ばに渡って、社会主義国の代表格であるソ連の解体や、ベルリンの壁崩壊による旧東西ドイツの統合、と時代が大きく変容していき、92年のベルリンで行われたオリンピック以降、一気にショービズ化が進んだと言えます。

しかし、それも致し方が無いことだと個人的には考えておりまして、その理由は、「スポーツ競技自体が観客を含んだ状態で行われるもの」である以上、この流れは止まることが無いと思います。

ラジオ放送から始まったスポーツ中継も、現在では人工衛星を渡って全世界どこにいても視認することが出来るようになりました。

これは=メディアが権力を強めることを意味し、それぞれ競技を視聴率という「数字」で表現せざるを得ない状態になっているとも言えるでしょう。

つまり現在のテレビ番組編成を考える際に、バラエティ番組と同列に扱われることを意味し、それは“数字”が取れなければ包装されないという危機感を生み、競技のルールが変更するというある種の逆転現象を許しました。

それはテニスにしても、バレーボールにしても然り、です。

今回のレスリング除外問題において、日本がその態度をどうするか、という点で、ボクは「日本人がメダルを取っているから」以上の理由を見つけ出さなければ、その態度が誤った方向へ進んでしまうように思えて仕方ありません。

というのも、結局、メダルが取れているから、というのは、レスリングがオリンピックに存続を希望する上での理由に弱いように感じるからなのですが、もっとレスリングが世界に広がることがオリンピック開催においてどのようなメリットがあるのかを論ぜられる必要があると思うのです。

そう言う観点で言えば、ボクはサッカーが大好きですが、サッカーは既にオリンピックの範疇を越えていると考えます。
なぜなら、サッカーはオリンピックの舞台を借りなくても独自で完結できる“強さ”を持っているからであり、その強さの理由は世界中に競技人口を抱えているからです。

しかし、未だにオリンピックからサッカーが外されないのには何かオリンピック側や、メディアの思惑が働いていると勝手に勘ぐってもいます。

そんなオリンピック主催側との“一定の緊張状態”をレスリングが保つことが出来なかった以上、主張するべきことはどのようにしたら今以上に広がれるのか、を真剣に考えていくことが必要がなのではないでしょうか。