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男らしさ、女らしさを考える

前回の掲示板でTomoikukaiさんからご提案のあった「男らしさ、女らしさ」について考えることを、今回のお題にしたいと思います。『脳は0.1秒で恋をする』という本の中で少し述べましたが、この「男らしさ」「女らしさ」というものも時代とともに変化をしています。例えば、現代においては、ぐいぐい女性を引っ張ることだけが「男らしい」というわけでもないと思います。では「男らしい」とは「女らしい」とは何でしょうか。そもそも、みなさんは「男らしさ」や「女らしさ」を追求することにどのような意味があると思いますか。あるいはどのような弊害があると思いますか。ご意見お待ちしています。

NO.8   Tomoikukai 2013/03/08 09:17:02 合計 13pt.

二十数年前、私達は、五組の家族で(皆んな、子供が、小学校以下だった)、思い立っては、集まって食事会をしていました。その時、私は、「近頃の女の人は、なんか、昔の人と違って女らしくないな」と発言した所、その中の小学校の先生が、「のぶたかちゃん、そんなこというたら、今は、差別発言ていわれるで。学校では絶対にいうたらあかんのや」と非難めかして言ってきました。私は、「女らしい」「男らしい」ということが、何で差別発言になるのか全く理解できませんでした。私が、「女らしい」という言葉に感じる印象は、子供を育てる時、悪い所も、何もかも包んでくれる優しさだし、「男らしさ」に感じるものは、厳しいながらも、頼もしく、絶対に見捨てない力強い優しさです。何れにしても、母親、父親として、子供を育てる資質が、「女らしさ」「男らしさ」を感じさせる発信源となっているような気がします。社会的動物である我々人間の、最も本質的な営みは、子を作り、一人前に育てて、世に送り出すことです。そして、その最も理想的な形が、一人前の男女が、協力してそれぞれの役割を果たし、温かい家庭を築き上げることだと思います。この、男女が協力してそれぞれの役割を果たす為には、この、「女らしさ」「男らしさ」の結びつきが、最も強力で安定した子育ての環境を作り上げるのだと思います。

それでは、「男らしさ」「女らしさ」というものに対する感じ方は、時代と共に、変化しているのでしょうか? 私は、残念ながら社会制度や社会の風俗、それに何よりも、時の教育によって、価値観が混乱してしまっていると思えてなりません。ちなみに、私は、闘争心をむき出しにした、女史プロの選手や、媚を売り物にしているAKBの誰々さんや、ロリータファッションのお嬢さんが、今のままで、可愛い赤ちゃんを育てられるということは想像できませんし、「女らしさ」を感じることもありません。しかし、今や、多くの男性が、彼女達から、セックスアピールを感じるのも現実としてありそうです。これは、今の人々が、「女らしさ」「男らしさ」という、サヴァイバルの根幹に関わる価値観にまで、商業主義の影響を色濃く受けてしまっているということを意味しているのではないかと思います。反対に、商業主義に操られた「男女」観を排除しようとして、教育の現場では、最も多感な恋多き思春期の教育から、「女らしさ」「男らしさ」を封印させて、偏差値教育の邪魔になる「性の乱れ」に対処しようとしてきました。これが、先に上げた、「女らしい」とか「男らしい」とかいうと、学校では差別発言になる(文科省通達?)と、件の先生が私に注意したことの背景にあるのではないかと思われます。この結果、男女(おとこおんな)や、草食系男性が増え続け、今や、結婚しない人が5割にも達しようかという日本人滅亡のシナリオの最大の原因になっているように思われてなりません。

我々が、中高の頃の学校は、舟木一夫の「高校三年生」や西郷輝彦の学園もの、等々、甘酸っぱい恋の雰囲気にあふれていました。(吉永小百合もいたし)みんなみんな、「女らしさ」「男らしさ」を求めていたような気がします。思春期で、男女共学で、儒教の残骸が残っていたとはいえ、自由な雰囲気があふれていたときは、子供らしい「恋」が花盛りになるのは自然だし、恋の鞘当ても多いかもしれないけれど、それこそが、世の中が明るく朗らかになってくる元、生きる力の源泉ではないでしょうか。

ああそれなのに、それなのに、今の学校という所は、中からカギを架け、文科省の見張りの基に、「恋愛禁止!」偏差値という名のシゴキ棒で生徒達を追廻し無理やり意味もない勉強まで押し付けています。これではまるで、学校という所は、強制収容所になってしまっているみたいです。日本で、今、何処を規制緩和しなければならないかというと、私は、学校で「女らしさ」「男らしさ」を表現することの規制を直ちに廃止せよ!と叫びたくなります。これは、本当の恋愛を経験したことのない、官僚や偉い先生方のヒガミやネタミから来ているのだと、わたしはにらんでいます。

現代インドの聖者バグワン・シュリ・ラジネーンは「宗教的人間とは、存在にイエスをいった人のことだ」といっています。つまり、自分自身を求め、「自分らしさ」を追求していけば、自分自身に目覚めることによって、自分に備わった脳みその働きにより、自然に、女は「女らしく」男は「男らしく」中性の人は「中性者らしく」他人や商業主義に惑わされずに自分自身を表現できるようになるのではないかと思います。そして、それが、社会の中で自然な形で存在する。そのことの為にこそ教育は存在する。私はそう思うのですが、いかがでしょうか。