男らしさ、女らしさを考える
terurunさんが仰った様に、そもそもそんな定義は人と接する上では必要のないものだと思います。
“「男らしさ」「女らしさ」の定義も、必要であれば、使えば良いし、必要でなければ、自分なりに相手を判断したら良いのではないでしょうか。”
この意見に同意しつつも、ボクの意見を明確にするために(ボク自身がきちんと認識するために…ですが)、「らしい」「らしさ」について定義してみたいと思います。
「○○らしい」といったカタチで話が進むには、対象としているものに対しての“語る側のそれに対するイメージ”が存在しますよね。語る人間がいまから語ろうとしているものに抱いている感情ともいえると思うのですが、対象に触れてきた過去から推察でしかないにもかかわらず、まるで事実であるかの様な物言い。
例えばイチロー選手が、まさにイチローだという発現をしたとします。それをこぞって「イチロー“らしい”発現」として我々は享受しますが、そのイメージはあくまでも“現段階におけるイチロー選手の一つの意見”であるにも関わらず、それをまるで全人格を現しているかの様な、言い方を悪くすれば暴力的な粗暴さでさえあると思うんです。
その考えは、次に聞いたときにはまったくもって違う存在感を示す形になるでしょうし、そのコトバに対する重みも時々刻々とイチロー選手本人のなかで変化していくことでしょう。
その点でいえば、男女における「らしさ」も相似性をもっているワケで、序文でもあるように時代とともに変化をしていくわけですが、その理由としてボクは、我々の主観が入るからだと考えます。
つまり、「らしさ」というのは嗜好であり、好き嫌いともいえるのではないでしょうか。そう考えるとボクは茂木さんの仰った“「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」と思っている人は、自分に対しても他人に対しても抑圧的”という部分に納得ができます。
好き嫌いである以上、相互理解を「完全に」得ることが難しい。だから、議論の最中である程度その人を捉えた上で、理解はできないけど理解しているように見せるために使っているのが「あなたらしい考えですね」というコトバになるのではないか、と。
こんなボクの意見も暴論ですが、それを踏まえた上で話を進められるのか、話の腰を折ってしまうのかによって全く相手に対する感謝や許容が足りないと思うのです。
相手のことをきちんと認識していることができれば「らしさ」を求めることはなくなるでしょうし、必要ないものではないでしょうか。