日本人が個人として自立するためにはどうすればいいのか?
もの、之を独立自尊の人と云ふ」。これは福澤諭吉の言葉です。でも、明
治以来、日本人の「独立自尊」はまだ達成できているとは思えません。ど
うしたら日本人に「独立自尊」を根付かせることができるのか。言い換え
ると、「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか」。前回の「組
織と個人のあるべき関係とは?」から引き続いて、議論をしていきまし
ょう。
前回の、公私混同を極めることが組織を活性化させる、という解説は、
私にとっては思いもよらぬ見解で、まさに目から鱗でした。
公私混同がまかり通る、ではなくて、極めていく、という言葉を
trasqueさんが使われているところが、重要な気がしました。
組織の目的とするところを達成するための公私混同は、私利私欲とは違う。そして、
個人がその優れた良識を発揮し、それによって相手の能力を引き出すというのは、
公正な手続きなのだ、とも思いました。
それは、テストの点数や営業成績などの、数値に対しての公正さではなく、
個人の良識に対する公正さ、個人の可能性に対する公正さ、という気がしました。
客観的に測れないそういうものに対する尺度を、自分の中に持つことが、
個人として自立するために必要なのかも知れない、と思いました。
掲示板の皆さんの議論が、すでに、広く深いものになっていて、
ますます追いつかず、私自身の考える事も、まとまらなくなっております。
最初に、現代の日本人は、そんなに自立していないでしょうか?
個人として弱いのでしょうか?
たしかに、選挙の投票率が示すように、
自分で物事を考えず、人任せにする人は多いと思います。
でも、それは、そうやっていても何となく生きていける、と思っているから、
意識が向かないのではないか?と思います。
少なくとも私のまわりの、身近な職場の女性たちは、
彼女たちが自由裁量を発揮したくなる場においては、おおいに自立していて、
強いです。
彼女たちは、私より、友達が多く、会話が上手く、おしゃれを楽しみ、
たとえ、新しいものを発明するような傑出した才能はなくても、
社会生活に必要な実践的なスキルや、
自分の生き方を自分らしく決めてきた決断力において、
とても優れているように、私には思われます。
ただ、彼女たちの中に、
人間は、付加的なすべてを取り払ったとき、皆、同じぐらい強くて、同じぐらい弱いのだ
ということを、知らない人が、何人かは、いるような気がするのです。
私がそのように言える資格があるわけではないけれど。
それに、付加的なもの、なんて言い方は幻想で、
付加的なものこそが、その人なのかも知れません。
けれど、もしそうなら、
尺度を、客観的な数値から、個人の感覚へ、シフトさせても、
多様な尺度を、社会に取り入れても、
結局は、序列や差別が、なくならないのではないでしょうか?
知性や教養、技術やセンス、さまざまな能力を高めることは、当然、重要で、
努力は、限りなく尊敬に値します。
でも、それは、その人、ひとりひとりの、自然な人生なのだから、
何かが出来るか、何かが出来ないかで、強さや弱さが決まるのは、
不公平ではないのかな?と・・・あまり何も出来ない私なので、よく、そう思います。
たとえば、坂本龍馬さんは
(もちろんお目にかかったことはないので、ドラマ等で知るかぎり)、
たぶん、自らの強さで自らを武装するような方ではなかっただろう、と思います。
私は、文学や芸術は語れないですが、
たとえば、歌なら、心にじかに語りかけてくる歌声は、なんと言うか、 無防備です。
もしかしたら、おそらく私達は、社会生活でなかなかそうは成れないから、
そのような情景に憧れる・・ということもあるのでしょうか?
日本人が個人として自立するためには、個人として強くなるためには、
何かが出来る、出来ない、で、強さ弱さを決めるのでなく、
本来は皆、同じぐらい強くて弱いのだと思うことで、
自分も相手も同じぐらい尊重するという、本物の個人主義、
人間本来の個人主義を、思い描くのが大切と思います。