夜┃間┃飛┃行┃
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“The Book Project 夜間飛行”では、次世代の「本」の形を提案します
┏┓鏡リュウジメールマガジン プラネタリー夜話
┗□───────────────────────────
2011年7月25日 Vol.001
みなさん、こんにちは。いや、こんばんは、といったほうがふさわしいで
しょうか。
鏡リュウジです。このたびは、「夜間飛行」でメールマガジンを始めさせ
ていただくことになりました。
ぼくは子どものころからずっと「魔法使い」に憧れてきました。初めは童
話の世界から、そしてタロット、占星術、近代の魔術、さらには現代の魔
法である深層心理学などの世界へと踏み込んでいくようになりました。
そうこうするうちに学生時代からさまざまなメデイアで占星術などを中心
に筆をとるようになり、おかげさまでそれでご飯が食べられるようにもな
りましたから、ハリー・ポッターのように箒で空を飛ぶことはできないま
でも、ある意味、「魔法使いになる」という夢はかなったのかもしれませ
ん。
それでも、それでも、です。ぼくのなかの「魔法使いになりたい」という
小さな野心はそれだけではどうも満足しきれていないようです。既存のメ
デイアでは、やはりさまざまな制約があり、魔法の翼をはばたかせるには、
ちょっとばかり窮屈なこともないわけではないのです。
そこで、ぼくのなかにいまだにいる小さな魔法使い見習いにもう少しだけ、
自由な活動の場を作りたいと思って、このメールマガジンを始めること
にしました。
その名も「プラネタリー夜話」。
プラネットというのは惑星のことですが、もともとこの言葉は「さまよう
もの」「放浪するもの」というギリシャ語の単語からきています。あちら
の世界とこちらの世界を、めぐりめぐりつつ、旅するもの、それがプラネ
ット。
このメルマガはそんな魔法に憧れ続ける内なる子どものために、想像力の
権利を守るために、そして、この合理の社会のなかで魔法に憧れるあなた
のために発信されます。
ぜひ、応援をよろしくお願いします。
【「夜間飛行」編集室より】
メルマガ「プラネタリー夜話」では、鏡リュウジさんへの質問
を受け付けます。
××××@×××.×××
(400文字以内/お一人様一問)までお送りください。
「質問コーナー」などメルマガ内のコンテンツで適宜、取り上げます。編
集部の判断で、どの質問を取り上げるか取捨選択させていただくことを、
ご了承ください。また、「この記事が面白かった」といった感想や「こん
な企画を読んでみたい」というご要望なども同じアドレスで受け付けます。
よろしくお願いします。
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※有料メルマガの購読、課金に関するお問い合わせは、
support@yakan-hiko.com
まで。届かない場合などは迷惑メール等に分類されている場合もあります
ので予めお確かめください。
※バックナンバーは下記からウェブ経由で購入することができます。有料
です。
http://yakan-hiko.com/kagami.html
※発行日は第2、第4週の月曜日です。第1、3、5週目についてはお休みと
させていただきます。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
┏┏┏┏ ━━━━━━━━━━━
┏┏┏┏ 今週の目次
━━━━━━━━━━━━━━━━
01 占いの世界<その1>
02 占星術VS心理学 第1回ゲスト:西加奈子さん(作家)
03 Q&A
04 マジカルコレクション
05 講演録
06 メディア出演情報
【今週のつぶやき】
占星術が面白いのはその中に多くの矛盾するパラダイムを内包している点。
それは意外にも近代思想にもつながっている。
【編集室よりお知らせ】
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けますと、写真が埋め込まれ、最適化されたレイアウトで読むことができ
ます。よろしければご利用ください。
━━┯━━━━━━━━━━━━━
01 │占いの世界<その1>
━━┷━━━━━━━━━━━━━
占いについての本音満載。ギリシャ哲学から現在の占いムーブメントまで
幅広く言及していきます。
★☆ 職業、占い師? ☆★
ぼくの表看板は「占い」ということになっている。世間ではぼくは占い師
になっている。若いころは、この「占い師」というウサンくさい響きがど
うにも嫌いでしかたがなく、あれこれ悩んで「占星術研究家」だとかその
あとに「翻訳家」などとつけてはそのアヤシイ印象をなんとか払拭しよう
としていた。
血気さかんなころは、「占い師のカガミさんです」と紹介されるたびに、
内心、カチンときていたりもしたのだった。(占星術ファンのためにいう
と、ぼくの出生ホロスコープでは月は勝気な牡羊座にあるのだといえば、
その「カチン」感もきっと伝わるだろう。)
いろいろな抵抗をしてきたけれど、個人鑑定はしていないとはいうものの、
「星占い」原稿でおまんまを食わせていただいているのは確かだし、大
手プロバイダーさまたちが運営している占いサイトでコンテンツを提供、
そのページのなかではほかの多くの先生がたと同じように「占い師」とし
てカテゴライズされているので、「占い師」カガミというアイデンテイテ
イも、まあ、仕方がないと最近では受け入れるようになってきた。いいも
ん、ぼくはぼくなんだし。(と開き直りか)
しかし、この「占い師」という言葉、今度はカッコつけて英文表記などに
なったときに、またしても頭を抱えることになってしまうのである。
占い師を英語で言うと、なんというか。
簡単な辞書をひくとFortune Tellerという言葉が出てくる。「占い」はFo
rtune Telling.そこで、海外の方にはFortune Tellerのカガミと紹介され
ることにもなるわけだが、この言葉、関係者にとっては「カンベンしてく
れー」といいたくなる呼称なのだ。
フォーチュン・テリングは「運を語る」とか「幸運を告げること」だから、
カッコいいじゃん、などと思うのは大いなる勘違いなのだ。英語圏で、多
少なりとも占いや占星術に真剣にとりくもうとしている者であれば、「フ
ォーチュン・テリング」という言葉はNGワードだというだろう。
この言葉には、どうもお遊び的で、軽薄、場合によっては一種の詐術のよ
うなニュアンスがついてまわるのだ。
では、なんという言葉を使うべきか。
それはずばり、Divination、デヴィネーションである。この言葉はもちろ
ん、Divineという言葉からきている。Divineというのは、「神にかかわる」
「神からの」「神聖な」といったような言葉だ。お遊び的なものとは異な
るという荘重なニュアンスがこの言葉にはある。
ギリシャ語ではこれにあたる単語はmantike、ラテン語ではmancyであった。
たとえば、手相占いのことをChiromancyといったりカード占いをCartmancy
といったりするけれども、これは手(カイロ)のmancyであり、カード(Cart)
のmancyであり、ともにDivinationであるということになる。
だから、まじめな占い師はフォーチュンテラーではなく、ディヴァイナー
と呼称するほうがずっと好ましいのだ。
もし、あなたが外国の占い師さんに会った時には、「フォーチュンテリ
ング」ではなく、「デヴィネーション」という言葉を使っていただきたい
のであります。その瞬間、きっとその占い師さんはあなたに一目おいてく
れるはず。
☆神々とのコミュニケーション
さて、このデイヴィネーション(マンテイケとかマンシー)という言葉は実
に由緒ただしいもので、その営みはどんなものか、ということが古典古代
からずっと真剣に討議されてきました。
占いは占い、深く考えなくていいじゃん、などといって彼らはすませてい
なかったのであります。
古代の人々にとっては、デヴィネーションとしての占い術は、神々とのコ
ミュニケーションであり、そしてそれは単に当てものであるばかりではな
く、この世界そのもののなりたちや法則を知ることにつながっていたのだ。
つまるところ、それは科学でもあるし、宗教でもあるし、哲学でもあるし、
霊的修行といった側面もあり、そのすべての総合だったといっていい。
たとえばローマ時代の哲人であり、ラテン語の模範たる文章を残したこと
で知られるかのキケロも、ずばり、『De divinatione』という本を残して
いるほどだ。キケロは占い術についてさまざまな考えを巡らせているのだ。
キケロは、当時知られていた占いを網羅し、哲学者らしい懐疑主義をもち
こみながらもローマの政治については決断が占い術によって行われていた
ことも記している。キケロは最初、占いの信奉者であったがのちには占い
に対しての痛烈な批判者となってゆく。
この本は、占い術の擁護者であるキケロの兄弟クィントウスとキケロ自身
の対話というかたちで展開してゆく。クィントウスは、過去の占いの的中
例をあげ、さらには神々が存在するのであるから、そのメッセージを受け
取る方法もあるはずだ、という推論も展開してゆく。
一方、キケロは合理的精神、懐疑主義にのっとって完膚なきまでに占いの
根拠を論破してゆくことになる。その口調たるや、反オカルトの大槻教授
や現在の占星術批判者の模範となるであろうものではあるが…。占いを愛
するぼくたちは、いったん、当たる当たらないの議論はここではおいてお
くことにしよう。
キケロの占い論(とくに宗教と占いの関係や政治思想のなかにおける占い
の役割)についてはぼくも勉強不足でこれからきちんと読んでいきたいと
は思っているのだが、ここでとくに重要なのは、キケロのこの書でデヴィ
ネーションを二種類に峻別していることだ。
この分類は、西洋における「占い」の哲学の根幹をなしてゆく。
とくにキリスト教は占いを禁止するわけだが、しかし、その「禁止」はそ
んなに単純なものではなく、また占星術をめぐるさまざまな論争の下敷き
になっていくテーゼで、きわめて重要なものになっていくのである。
幸い、キケロの卜占論を一部、日本語に翻訳してくださっているサイトが
みつかったので、ここでその部分を引用させていただこう。
Cicero, Div. 1.34 = LS. 42C
それだから、私が同調するのは卜占に2種類あると言っていた人々なのだ。
つまり、その一つは技術に与り、もう一方は技術を欠いている。という
のも、技術が存する人々は新しい物事には推理によって従い、古い物事は
観察によって学ぶのだから。しかし、技術を持たない人々は観察され理解
された徴候によって理性を働かせたり推理することもなく、魂のある種の
衝動や勝手気ままな動きで将来のことを思い描くのである。こんなことは
眠っている人々にもしばしば生じるし、狂気に陥って予言する人々にも時
には起こる。
http://shin_ueda.tripod.com/stoics/cicerodiv.txt
この二種類の分類のキモは、ようは「霊感」のようなものがかかわってい
るかどうか、ということになる。
前者は、「技術」によるもので、観察と推理によって、しるしを読んでい
くようなタイプの占い。もうひとつは、理性や推論によらず、一種の狂気
のような状態のなかで未来の予兆を感じ取るというものである。
前者を「推論的」デヴィネーション、後者を「霊感的」デヴィネーション
ということもできるだろう。
ただし、ここでいう「霊感」とは、「わたしって、レイカンあるのよねー
ー」なんていうような軽いものではまったくない。
狂気といわれているのも、今の病理的なものではなく、かのプラトンに出
てくるような神的狂気(フレンジイ)、理性をつきぬけた心の状態を示して
いるといったほうがいいだろう。古代の哲学は、ドライな左脳的なもので
はまったくなく、シャーマニズムとか神秘主義にずっと近いのだ。
この二つの分類について、非常に詳しく違いを述べているのが、ギリシャ
の新プラトン主義者であるイアンブリコスだ。
イアンブリコスは哲学者であるだけではなく、一種の魔術師でもあって神
々を動かす術テウルギーについて多くを書き残している。
オーソドクスな哲学史ではイアンブリコスはあまりにも怪しく、それまで
の理性的なプラトン主義を「退行」させたと理解されている向きがあるけ
れど、いやいや、想像力の権利を重視する我らが星の信仰者にとってはむ
しろ、イアンブリコスは神秘主義者、神秘修行者としての哲学者の実践の
痕跡をはっきりみせてくれる大きな手掛かりなのだ。
あーーそろそろ、疲れてきました。今回はこのあたりで、一休み。次回は、
この分類について、もうちょっと詳しくみていくことにしようと思います。
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話の世界から、そしてタロット、占星術、近代の魔術、さらには現代の魔
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そうこうするうちに学生時代からさまざまなメデイアで占星術などを中心
に筆をとるようになり、おかげさまでそれでご飯が食べられるようにもな
りましたから、ハリー・ポッターのように箒で空を飛ぶことはできないま
でも、ある意味、「魔法使いになる」という夢はかなったのかもしれませ
ん。
それでも、それでも、です。ぼくのなかの「魔法使いになりたい」という
小さな野心はそれだけではどうも満足しきれていないようです。既存のメ
デイアでは、やはりさまざまな制約があり、魔法の翼をはばたかせるには、
ちょっとばかり窮屈なこともないわけではないのです。
そこで、ぼくのなかにいまだにいる小さな魔法使い見習いにもう少しだけ、
自由な活動の場を作りたいと思って、このメールマガジンを始めること
にしました。
その名も「プラネタリー夜話」。
プラネットというのは惑星のことですが、もともとこの言葉は「さまよう
もの」「放浪するもの」というギリシャ語の単語からきています。あちら
の世界とこちらの世界を、めぐりめぐりつつ、旅するもの、それがプラネ
ット。
このメルマガはそんな魔法に憧れ続ける内なる子どものために、想像力の
権利を守るために、そして、この合理の社会のなかで魔法に憧れるあなた
のために発信されます。
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【「夜間飛行」編集室より】
メルマガ「プラネタリー夜話」では、鏡リュウジさんへの質問
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××××@×××.×××
(400文字以内/お一人様一問)までお送りください。
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01 占いの世界<その1>
02 占星術VS心理学 第1回ゲスト:西加奈子さん(作家)
03 Q&A
04 マジカルコレクション
05 講演録
06 メディア出演情報
【今週のつぶやき】
占星術が面白いのはその中に多くの矛盾するパラダイムを内包している点。
それは意外にも近代思想にもつながっている。
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01 │占いの世界<その1>
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占いについての本音満載。ギリシャ哲学から現在の占いムーブメントまで
幅広く言及していきます。
★☆ 職業、占い師? ☆★
ぼくの表看板は「占い」ということになっている。世間ではぼくは占い師
になっている。若いころは、この「占い師」というウサンくさい響きがど
うにも嫌いでしかたがなく、あれこれ悩んで「占星術研究家」だとかその
あとに「翻訳家」などとつけてはそのアヤシイ印象をなんとか払拭しよう
としていた。
血気さかんなころは、「占い師のカガミさんです」と紹介されるたびに、
内心、カチンときていたりもしたのだった。(占星術ファンのためにいう
と、ぼくの出生ホロスコープでは月は勝気な牡羊座にあるのだといえば、
その「カチン」感もきっと伝わるだろう。)
いろいろな抵抗をしてきたけれど、個人鑑定はしていないとはいうものの、
「星占い」原稿でおまんまを食わせていただいているのは確かだし、大
手プロバイダーさまたちが運営している占いサイトでコンテンツを提供、
そのページのなかではほかの多くの先生がたと同じように「占い師」とし
てカテゴライズされているので、「占い師」カガミというアイデンテイテ
イも、まあ、仕方がないと最近では受け入れるようになってきた。いいも
ん、ぼくはぼくなんだし。(と開き直りか)
しかし、この「占い師」という言葉、今度はカッコつけて英文表記などに
なったときに、またしても頭を抱えることになってしまうのである。
占い師を英語で言うと、なんというか。
簡単な辞書をひくとFortune Tellerという言葉が出てくる。「占い」はFo
rtune Telling.そこで、海外の方にはFortune Tellerのカガミと紹介され
ることにもなるわけだが、この言葉、関係者にとっては「カンベンしてく
れー」といいたくなる呼称なのだ。
フォーチュン・テリングは「運を語る」とか「幸運を告げること」だから、
カッコいいじゃん、などと思うのは大いなる勘違いなのだ。英語圏で、多
少なりとも占いや占星術に真剣にとりくもうとしている者であれば、「フ
ォーチュン・テリング」という言葉はNGワードだというだろう。
この言葉には、どうもお遊び的で、軽薄、場合によっては一種の詐術のよ
うなニュアンスがついてまわるのだ。
では、なんという言葉を使うべきか。
それはずばり、Divination、デヴィネーションである。この言葉はもちろ
ん、Divineという言葉からきている。Divineというのは、「神にかかわる」
「神からの」「神聖な」といったような言葉だ。お遊び的なものとは異な
るという荘重なニュアンスがこの言葉にはある。
ギリシャ語ではこれにあたる単語はmantike、ラテン語ではmancyであった。
たとえば、手相占いのことをChiromancyといったりカード占いをCartmancy
といったりするけれども、これは手(カイロ)のmancyであり、カード(Cart)
のmancyであり、ともにDivinationであるということになる。
だから、まじめな占い師はフォーチュンテラーではなく、ディヴァイナー
と呼称するほうがずっと好ましいのだ。
もし、あなたが外国の占い師さんに会った時には、「フォーチュンテリ
ング」ではなく、「デヴィネーション」という言葉を使っていただきたい
のであります。その瞬間、きっとその占い師さんはあなたに一目おいてく
れるはず。
☆神々とのコミュニケーション
さて、このデイヴィネーション(マンテイケとかマンシー)という言葉は実
に由緒ただしいもので、その営みはどんなものか、ということが古典古代
からずっと真剣に討議されてきました。
占いは占い、深く考えなくていいじゃん、などといって彼らはすませてい
なかったのであります。
古代の人々にとっては、デヴィネーションとしての占い術は、神々とのコ
ミュニケーションであり、そしてそれは単に当てものであるばかりではな
く、この世界そのもののなりたちや法則を知ることにつながっていたのだ。
つまるところ、それは科学でもあるし、宗教でもあるし、哲学でもあるし、
霊的修行といった側面もあり、そのすべての総合だったといっていい。
たとえばローマ時代の哲人であり、ラテン語の模範たる文章を残したこと
で知られるかのキケロも、ずばり、『De divinatione』という本を残して
いるほどだ。キケロは占い術についてさまざまな考えを巡らせているのだ。
キケロは、当時知られていた占いを網羅し、哲学者らしい懐疑主義をもち
こみながらもローマの政治については決断が占い術によって行われていた
ことも記している。キケロは最初、占いの信奉者であったがのちには占い
に対しての痛烈な批判者となってゆく。
この本は、占い術の擁護者であるキケロの兄弟クィントウスとキケロ自身
の対話というかたちで展開してゆく。クィントウスは、過去の占いの的中
例をあげ、さらには神々が存在するのであるから、そのメッセージを受け
取る方法もあるはずだ、という推論も展開してゆく。
一方、キケロは合理的精神、懐疑主義にのっとって完膚なきまでに占いの
根拠を論破してゆくことになる。その口調たるや、反オカルトの大槻教授
や現在の占星術批判者の模範となるであろうものではあるが…。占いを愛
するぼくたちは、いったん、当たる当たらないの議論はここではおいてお
くことにしよう。
キケロの占い論(とくに宗教と占いの関係や政治思想のなかにおける占い
の役割)についてはぼくも勉強不足でこれからきちんと読んでいきたいと
は思っているのだが、ここでとくに重要なのは、キケロのこの書でデヴィ
ネーションを二種類に峻別していることだ。
この分類は、西洋における「占い」の哲学の根幹をなしてゆく。
とくにキリスト教は占いを禁止するわけだが、しかし、その「禁止」はそ
んなに単純なものではなく、また占星術をめぐるさまざまな論争の下敷き
になっていくテーゼで、きわめて重要なものになっていくのである。
幸い、キケロの卜占論を一部、日本語に翻訳してくださっているサイトが
みつかったので、ここでその部分を引用させていただこう。
Cicero, Div. 1.34 = LS. 42C
それだから、私が同調するのは卜占に2種類あると言っていた人々なのだ。
つまり、その一つは技術に与り、もう一方は技術を欠いている。という
のも、技術が存する人々は新しい物事には推理によって従い、古い物事は
観察によって学ぶのだから。しかし、技術を持たない人々は観察され理解
された徴候によって理性を働かせたり推理することもなく、魂のある種の
衝動や勝手気ままな動きで将来のことを思い描くのである。こんなことは
眠っている人々にもしばしば生じるし、狂気に陥って予言する人々にも時
には起こる。
http://shin_ueda.tripod.com/stoics/cicerodiv.txt
この二種類の分類のキモは、ようは「霊感」のようなものがかかわってい
るかどうか、ということになる。
前者は、「技術」によるもので、観察と推理によって、しるしを読んでい
くようなタイプの占い。もうひとつは、理性や推論によらず、一種の狂気
のような状態のなかで未来の予兆を感じ取るというものである。
前者を「推論的」デヴィネーション、後者を「霊感的」デヴィネーション
ということもできるだろう。
ただし、ここでいう「霊感」とは、「わたしって、レイカンあるのよねー
ー」なんていうような軽いものではまったくない。
狂気といわれているのも、今の病理的なものではなく、かのプラトンに出
てくるような神的狂気(フレンジイ)、理性をつきぬけた心の状態を示して
いるといったほうがいいだろう。古代の哲学は、ドライな左脳的なもので
はまったくなく、シャーマニズムとか神秘主義にずっと近いのだ。
この二つの分類について、非常に詳しく違いを述べているのが、ギリシャ
の新プラトン主義者であるイアンブリコスだ。
イアンブリコスは哲学者であるだけではなく、一種の魔術師でもあって神
々を動かす術テウルギーについて多くを書き残している。
オーソドクスな哲学史ではイアンブリコスはあまりにも怪しく、それまで
の理性的なプラトン主義を「退行」させたと理解されている向きがあるけ
れど、いやいや、想像力の権利を重視する我らが星の信仰者にとってはむ
しろ、イアンブリコスは神秘主義者、神秘修行者としての哲学者の実践の
痕跡をはっきりみせてくれる大きな手掛かりなのだ。
あーーそろそろ、疲れてきました。今回はこのあたりで、一休み。次回は、
この分類について、もうちょっと詳しくみていくことにしようと思います。