職業の魅力は何で決まると思いますか?
先日、ハーバード大学で物理学者をしている北川拓也さんと面白い話をしました。ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグが登場したことでもっとも大きなインパクトがあったのは、どういう点かという話です。
アメリカでは昔から、いわゆる文系の、ゴールドマン・サックスで働いているような金融マンが、科学者や技術者を見下していたんですね。「プログラマーや技術者なんて安い給料で雇えばいいんだ。俺たちがあごで使ってやるよ」といった風潮がある。
そのことにビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグは怒っていたわけです。実際、マーク・ザッカーバーグが、フェイスブックの共同創業者であるエドゥアルド・サベリンを追い出した背景には、エドゥアルドの「経営者的」な考え方が嫌だから追い出したという事情があるのではないかという噂があります。
そうして今や、プログラマーや技術者は腕さえあれば、大富豪になることも可能な職業になったわけです。これは世界中のプログラマーや技術者のモチベーションを考えると、とても大きな意味があったと思います。
「職業に貴賎無し」と言われるけれども、実際には「今、この職業は魅力的だけど、この職業は魅力的じゃない」という世の中での認識は厳然としてあると思います。しかもそれは刻一刻と変わっていく。
例えば、昔は、花屋さんと言えば、単に「花を売る人」というイメージしかありませんでした。しかし今や世界市場をも視野に入れた魅力的な「フラワービジネス」と捉えられています。また、ケーキ屋さんにしても、昔はただのお菓子職人でしたが、今やスターがたくさんいる人気職業になりました。職業の浮沈というのは、確かにある。
脳科学者という職業も昔はなかったけど、今は意外と人気が出てきているようです。
みなさんは、どのような点を見て、「これは魅力的な職業だ」あるいは「この職業には魅力が無い」と考えていますか。
なぜ、今の職業に就いているのか、また「こういう理由であの職業に就きたい」という話でも結構です。教えてください。
それを使えることは喜びです。
ですが。。
茂木さんがおっしゃる様に「上」が決まっているというのではその職業に就いても良いのだろうか?と思います。研究者などもそうだと思います。生態学者の伊藤さんなどは(第一回生態学会功労賞、クマグス賞)本当に東大出の「理系でない」研究を歪める役人にずっと腹を立てており、東大の悪口を言うことは生き甲斐だ、というようなことを言っておられました。
私などは能力とそれを使う喜びの為には、デザイナーになったら良いかと思いますが、日本の大メーカーの体制ではデザイナーをやっても楽しくないのではないか?と思ったりします。しばしば。とは言っても今更この年では(出来ないのではなく)日本の採用体制からして雇ってもらえないわけですが。
私は自分より強権的に上の立場が決まっている人が居る仕事が大嫌いで、闘う気は無いですがアイディアの善し悪しでのみ判断されたい人です。
また、このような世になってくると、自分の得意の能力が使えればそれでいいのか?これこそおかしい、これこそ開かれるべきだ、と言ったような社会的意義に参加することは、例え才能がない分野でも、仕事をする喜びなのではないか?と思ったりもします。それほどひどい。捨て置けぬ、という気持ちが起きます。内向きの自分の小さい安穏などにひたっていていいのか?充実感を得られるか?と思ったりするのです。
皆さんはどうでしょうか?
というものの、そういった方面で自分の能力が無いと思っているわけではないから迷うのかもしれません。きっとそうです。自分は才能の塊です。
仕事の魅力。それはやはり。。最終的には世に問えるか?問えるならそこは魅力がある。
ダーウインだって書かなくても良かったわけですから。
もちろん、彼が金の心配とは無縁だったことは言うまでもありません。
魅力的だと思うことは、対象をもっと知りたいと欲望しているのでしょうから、あこがれの職業に就業できた場合には、技術の習得も楽しく早く可能だと思います。
魅力的な人がやっている仕事で、それが自分の感受性の高い方面に掘り下げがいの有る職業であれば、それは魅力的な職業であり、その人の適職では無いかと思います。
逆に魅力の無い職業は、その仕事に対して真剣に取組んでいる人がいない、もしくは、むくわれない(感謝されない)職業でしょうか。
特に政治家は、揚げ足を取るような批判を多く受け、しかもあまり尊敬されていないように感じます、重責だろうに報われずに大変だなと感じることが多いですね。
たくさんの仕事のどれもができるわけではなく、外から眺めるだけですが、魅力を感じる職業が人それぞれ違うのは、その人の価値観や、その人の性格、その人らしさを反映するように思います。
その後、時代の変化とともに新しい職業が増えたのではないでしょうか?
子どもは既成の職業しか思い描けないけれど、成長していくにつれて、職業ではなく自分の能力が生かせるような仕事が魅力的になってくるように思います。そして、自分に合った仕事が見つけられなかったら、新しく仕事を創り出すこともできるのですよね。
子どもの頃、教師にあこがれました。
生徒にいろいろ言われるから、教師なんてとんでもない、と言われても、そうか、いやだな、と思わなかったのは子どもと接したかったからではないかと思います。
しかし、教育実習をやって、複数の生徒を前にしたとき、一人一人と向き合いたいことに気がつき、教師にはなりませんでした。
その後全く違う仕事をしたことがありますが、やはり人と接したくなりました。
そして今も、子供や人、一人一人と向き合える仕事が魅力的だな、と感じます。
人は生来、利他性を持っているとのこと。
その利他性が満たされ、自分の能力が生かせる、と感じられる職業に、魅力を感じるのではないでしょうか?
途中、子どもが産まれてからは、子育てを第一にしながら、それでもできる働き方は…と考えて、独立し、現在までフリーでやっています。
コンセプトは、「障がいのある人を支援する人を支援する」です。
私にとっては、障がいのある人を直接支援することが、一番魅力のある仕事です。
No.1.のryosuke85さんの感動に通じるところがあるように感じるのですが、支援の対象となった人が、自分でできた!という感覚を得て生き生きとしてくる瞬間に出会うのは、何にも代えがたい感動と充実感を感じます。
ryosuke85さんの言葉をお借りすれば「たまらない!」です!
でも、今はあえて、直接支援ではなく、直接支援する人を支援(応援)することにフォーカスしています。
私がこの仕事に就いてから10年間、自分の無理解からたくさんの(障がいのある)人を傷つけるような関わりをしてしまいましたが、ある研修がきっかけでそのことに気づかせてもらってから、私は、この仕事がより好きに、魅力的に感じるようになりました。
いろいろなところへ出かけていき、いろいろな人と出会ってみると、昔の私と同じように「知らない」ために陥る「うまくいかないループ」にはまっている人がとても多いことに気づき…障がいのある人たちには、もっともっとすてきな時間があることを、支援する人たちには、私が感じたような「やった!」という感動と充実感を、持ってほしい…と思ったからです。
そんな仕事も、かれこれ10年。
今は、ひとりひとりの人生を生きる障がいのある人たちと、ひとりひとりの仕事にかける支援者のみなさんと、のダブルの感動をもらえるようになりつつあり、じんわりと味わい深い感動を感じることもしばしばです。
私の師のひとりの教え「感動が人を動かす」。
はじめは人を感動させることで、その人を動かすのだと思っていましたが、今は、自分が感動することができれば、周囲の人たちにも感動が伝わり、前に進む力になるのだと思うようになりました。
人と人とのつながりを感じ、「共感」することができる。
そんな仕事に魅力を感じています。
この仕事は、私のライフワークだと思っています。
が…山の中の雑貨屋さんの夢も持っています。人生をその雑貨屋さんで終われたらいいなぁ…。
poporonさん、ありがとうございます。
「自分の人生を精一杯生き抜くことが職業」、なんか胸に響きました。
感謝。
やりたいことをキャッチする感性の高さと突き進んで行く素直さ、前向きな姿勢がとても素敵ですね。
「職業の魅力は何で決まるか?」 私はその職業(仕事)にかける情熱で決まると思います。
その仕事をしていて、どれだけワクワクできるか。「ワクワク=楽しい=楽ちん」ではなく
どんなにもがき苦し時があっても、ワクワクできる情熱を注げる「職業」は「魅力ある職業」だと思います。
逆に人を騙して何かを売りつけるような「魅力の無い職業」にはワクワクできないものだと思います。
私の職業は「一般事務」です。仕事自体にはワクワクはしません。
今の仕事は「生きるため、したい事をするためのお金を得るための労働」だと思っています。
まだ生きていたいし、やりたいことは次から次へと湧いて出てくるので思いつくまま、やっています。
yamadaswitchさんとは逆に、「これやる!」と決め始めると必ず邪魔が入ります。足を引っ張られ、足止めや回り道を強いられます。 ただ、なぜか「予算」と「指導者」は必ず現れてくれます。
結局、ワクワクするような情熱を注ぎ続けることが出来るのです。
と言うことは私の職業は「自分の人生を精一杯生き抜くこと」なのかもしれません。
「将来の夢」を聞いたところ、
男女ともに8割の子供が「パティシエ」と答えました。
これは、ひょっとすると朝に入っているアニメ番組の
「クッキンアイドルアイ!マイ!まいん」の影響か……!?
と驚きました。
『ヒカルの碁』という週刊少年ジャンプで連載していた
囲碁マンガの流行った時には
囲碁を始める子どもが激増し、そのマンガを読んで
プロ棋士になった方もいるのだそうです。
ジャンプでの連載終了後、
日本棋院と囲碁将棋ライフでは青少年の囲碁ファンを拡大するため
「囲碁マンガ原作大賞」(2007年)というのを設けたぐらいですから、
マンガやアニメってわかりやすく、しかも力強く
人に訴えかけるものなんだなあと思いました。
だって、「職業」にしちゃうんですから。
すごいことですよね。
さて、そんな私がテレビやマンガの影響を受けて、
何の職業に就いたのかというと……。
「世界ふしぎ発見!」のテレビレポーターにあこがれて
ミステリーハンターを目指すも途中で挫折して、
気が付いたら自分でミステリーを作る側に回っていたのでした。
私は年に一回、
「どうしてもコレがやりたい!!」という
情熱のようなものが降りてきて、「それがやりたい」と
思った時にはどんな無理めなことでも、
周りが応援してくれて、予算が転がり込んできて
偶然に偶然が重なって、
実現できるようになっています。
昨年は震災の影響もあり、いろいろ考えた結果、
「最終的には石しか残らないのかもしれない」と思った私は
縄文時代のストーンサークルを現代に蘇らせたいという情熱にかられ、
県の教育委員会に打診して60×60メートルほどの
土地をただで貸してもらい、
長野県でストーンサークルを造るアーティストに偶然出会い、
なんだかんだで青森県の外ヶ浜町に、
石7700個を使ったストーンサークルを
造ってしまったのでした。
予算は青森県の縄文遺跡への集客事業として取るのですが、全部使い切ってしまうので私には一円も入らず、
一円にもならないものは職業とはいえないのかもしれませんが、
こんな仕事をしています。
大切な職業を、決めるときは、自分にとって、魅力的な人たちのところに、
行こうとします。
私にとって、魅力的な要素というのは、説明するのは、難しいですが、
おそらく、
私は、モダニズムや、ポストモダニズムといった、哲学の立場が、好きで、
社会構成主義的な見方が、得意なんだろうなと、思います。
私は、それらを、日本で、哲学や、心理学を通して、学びました。
一生の宝物です。
そして、それらの宝物が、より輝くことに、魅力を感じて、
より輝かせてくれる人たちのところに、行きたいですね。
まるで、私が、輝いているように、思えて、いきいきとして、
いられるからです。
大月 千草
Twitter @chigusaotsuki
私が魅力を感じる職業というのは、人々が求めている価値を生み出しているところにあります。そして誰よりも早く商品やサービスを世に送り出しているところにあります。つまり競争を通して、より良いものをより早く、世に届けていることです。今人々が求めている価値でなくてもよい、未来の人々の趣向を先取りして、未来を予測するような事業を展開しているところもあります。
スティーブジョブズは、製品をつくるときにマーケティングを必要としなかったと言われています。誰も想像したことない新しい製品をつくるのに、現在の消費者の趣向を調査しても意味がないと考えたのです。そんなスティーブジョブズが生み出した製品は、現に世界中で教育やビジネス、人々の生活をより良く変えています。
少し意味が違ってくるかもしれませんが、それは現状に甘んじておらず、同じレールをひた走るのではなく、新しい世界を切磋琢磨して創りだしていくということでもあります。新しい考え、新しい道具、新しい人をどんどん駆使して、また新しいサービスやリソースを生み出していく、そんな職業に魅力を感じます。
竹内健太
twitter @kentatakeuchi
混沌としていた行為が…
という文章の最後の部分
ありません → ×
たまりません → ○
です。
失礼しました。
皆さんの職業の魅力、楽しみにしております。
自分の枠組みの中で述べれば、自分の職業には魅力があると思っています。
僕はスポーツに携わっており、その中で指導をしております。
スポーツといっても、その内容は広く、普段の生活を寄りよく過ごすために取り組む一般健康スポーツ、怪我や病気からの賦活を目指すリハビリスポーツ、競技者たちが自らの身体を使用して記録や表現を競う競技スポーツ、とあらゆる所に“スポーツ”は存在します。
僕が現在の職業に携わっている大きな理由は、その多様性にあります。
人の数だけ指導方法が存在することから、その可能性は無限になりますし、その可能性を色々と探っている時間は本当に幸せです。
何よりも、人の動きが変わった瞬間や痛みが軽減、もしくは消失した瞬間、チームとしての動きが洗練されてきた瞬間、などその人の持っている経過質が大きな変容を見せた瞬間に立ち会える事が本当に楽しいです。
混沌としていた行為が洗練されたenergy flowを見せた時の感動はありません。
その感動には競技者であろうと一般人でも関係なく、同質であり、違いがあるとすれば表現の場が違うだけなのです。
競技者の傍にいて指導している所謂Trainerという人たちは、認知はされてきていますが、あくまでも主体は競技者達にあります。
その主体となる競技者をどれだけ客体である環境や条件にうまく対峙させられるように出来るかどうか、というせめぎあいの世界に身を置いている人たちがいる事を知ってもらいたいと思いますし、それが僕の今後の課題でもあると思っています。
話がそれてしまったのですが、上記した人の経過質を高める手助けをするというところに、非常に魅力を感じています。